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平日の、しかも雨の日にケーキや菓子を買いに来る人は多くない、
静かな音楽と甘い香りに包まれた穏やかな空間で、私の思考はどんどん暗い方向へ突き進んでいく。
目眩がしそうになった時、目の端に見覚えのある色の傘が映りこんだ。
その傘を見て私ははっとして、崩れそうになっていた平衡感覚を取り戻した。ぱっと見、黒にも見える程深い青色の傘。
模様も入っていない地味な大きめのその傘を店の軒先でたたむ人物のことを、私は後ろ姿だけで誰なのかわかった。
というより、正確には“顔を思い浮かべることが出来た”。
名前は知らない。
菓子の売買以上の親しい会話もした事がないので知人とも少し違う。
にも関わらず、私な顔を覚えているのはそれだけ特徴的なお客さんだからだ。
そのお客さんが綺麗な動きで傘をたたみ、傘立てにおさめている間に、私はショーケースの中でも特に目立つ華やかなケーキの存在を確認した。
目的のものを確認すると同時に扉が開き、ちりんちりんと小さなベルの音が店内の音楽に混じる。
入ってきたお客さんは特別痩せているわけではないがすらりとして、全体的に鋭く尖った様な印象を受ける男だ。
歳はたぶん、私と同じくらい。
私はこの男のことを心の中で『雨の日の花男』と呼んでいる。
理由は単純、『雨の降る日に訪れ、いつも花を持ち、花を選ぶから』。
花男はいつも通り、ショーケースの前に立つとあまり迷わずに注文を始めた。
「ガトーショコラとタルト・オ・ポム、ひとつずつ。」
「ガトーショコラとタルト・オ・ポム、おひとつずつですね。かしこまりました。」
注文を繰り返し、ケーキを取りにかかる。
“タルト・オ・ポム”
林檎のタルトのことだ。
これ自体は対して珍しいものでもなく、探せばどこにでもあるケーキだろう。
しかしこの店のタルト・オ・ポムは少しだけ、特別だ。
薄切りの林檎を花びらに見立て、タルト上面に薔薇を形作っている。
花男は、来店の度にこのタルトを必ずひとつは買っていく。
これが理由のひとつだ。
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