23人が本棚に入れています
本棚に追加
藤田徹は電話は早々とあきらめて、「真也の後輩」としてちょくちょく家へ来るようになりまして、西宮生まれゆえ「よそもん」と呼ばれておりました。「藤田くんが来はるとあの喧しい車の音で、一町先からでも分かる」と母が申しました。従兄の真也は、「藤田は女の子には手ぇ早い。ええ奴やけどな。由美ちゃんも気ぃつけて付き合いや」と常々申しておりましたけれど、徹は母方の祖父に買ってもらった中古の赤いフォルクス・ワーゲンで、私の学校の前でしばしば張っている割には一向に手ぇ早くなくて、結局は卒業間際まで気のおけない遊び仲間のままでございました。祇園会館の三本立て映画と、東山安井の金毘羅稲荷へ桂米朝氏主催の落語会に行く時だけは二人きりでございましたが、別にどうということもございませんでした。桂米朝氏はいよいよご壮健でご活躍でございますが、我らが青春のスティーブ・マッキーンも鶴田浩二も、私たちが中年になったら亡くなっ
てしまいました。
藤田徹はモダン・ジャズ狂いのくせに歌謡曲も好きで、ちょくちょくくれるお手紙には、森新一の「年上の人」とか、美川憲一の「ぬさまい橋」なんかの三番までの歌詞を大学のマーク入りのレポート用紙に書き連ねて、時折は「現代落語亡国論」とか、当時の家出少年の荷物には必ず入っていたという「寺山修司の詩について」なんかがえんえんと書いてあるだけで、女の子の喜びそうな文句はどこにもございませんでした。こんなお手紙、いらんわい。
徹は「ゆりちゃん」で一度、関西剣道大会準優勝記念に、フィリピン製の青いガラス玉のネックレースを買ってくれましたけれど、会う時に着けていないと、「あれどうしたん。食うたんか」とちりちりうるさい素寒貧で、それはともかく、何よりもげんなりしたのは彼のお家でございました。だだっ広いだけでセンスの悪い典型的な田舎屋敷で、温泉旅館風お玄関の趣味の悪いお屏風の前に、でかいアイリッシュ・セッターが洒落た様子で寝そべっているという和洋折衷だだ漏りで、「西宮ちゅうなとこは、もともとはど田舎やからなあ」と、孝太郎が笑っておりました。
最初のコメントを投稿しよう!