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ほんまになあ、と言葉つき柔らかな相槌には、「ああ、嬉し、隣の倉が売られゆく」という京都人の心情が垣間見えております。ともあれ福露寺には昔の朋輩が足しげく訪れて、「女はみんな、ああ言うのん好きやからなあ。占いてなもん、統計学の一種やのに」と、初めはせせら笑いの商人たちをも何時の間にか後ろ楯に引き込んで、「八重子はん、芸者やめてからの方が、よう売れたはりますがな」と、京都では有名な霊能力者に祭り上げられているお方でございます。
福露寺のお座敷でご挨拶する母の指の、ぐるりとダイヤを細工した南洋真珠が、まあるく黒く、はつなつの陽光にこっくりと輝いております。
当たるも八卦は、南座の顔見世とも平安神宮の春の野点とも違う。お花のお稽古ではもちろんなし。やわらかもんはちとぐつ悪い、かと言うて日赤病院へ糖尿病の伯母のお見舞いに行くような、結城や大島のお対は堅すぎる。母と二人、二階の衣裳部屋、などと大げさに呼んでいる一間半の押し入れに三竿の和箪笥を並べた板の間で、あれ着よか、こっちにしよか、と心たのしくあれこれ脱ぎ散らかして、母は白山紬にロウケツの小紋。私は同じ生地に紅型友禅。荒しぼちりめん一疋を母と娘で分けた染め帯。華美でなく、さりとて地味でなく、着崩れしないように丹念に、しかもかろく、いかにも体に溶け込むように纏う着付けに、午後の時間はときめいて流れていたものを、肝心かなめのみみずく先生は、おしろい臭い母と娘の気合のべべ? そんなもんどうでもよろしおすがな。とばかりに目もくれず、すげない。
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