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敏生は、なにを考えているのだろうか…。それとも、なにも考えていないのだろうか…。ただ黙々と歩き続けていて、嬉しそうでも楽しそうでもない。
せっかくこんなに敏生の近くにいるのに、結乃はもう逃げ出したくなった。
「……そういえば、あの紫陽花」
そのとき、不意に敏生が口を開いた。
敏生の沈黙の間の思考からこぼれ出た言葉は、あまりにも突拍子もなくて、〝あの〟紫陽花が〝どの〟紫陽花か分からなかった。すると、結乃の戸惑いを読んだ敏生が言葉を付け足す。
「高校へ続く坂道のところに、紫陽花がたくさん咲いてたの……知ってる?」
結乃の胸が、痛いくらいにキュッと反応した。結乃の切ない思い出。〝あの〟紫陽花を見つめていた高校生の時と、今と、少しもこの気持ちは変わっていない。
「……うん。ちょうど今頃の時期、きれいだったよね」
苦しいほどだった沈黙から抜け出せて、結乃はホッと息をついた。
「俺の家から近いし、ちょっと見に行ってみようか?」
思ってもみなかった敏生の提案に、結乃の意識がしばし宙に舞う。もちろん見に行きたいのに、その返答がなかなか出てこない。だけど、辛うじて「うん…」と、敏生を見上げて頷くと、敏生もほのかに表情を和らげ、安心したように息を抜いた。
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