雨の日

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 朝方も、この喫茶店に腰を落ち着けるほんの少し前までも雨なぞちらとも降る気配はなかった。約束の時間よりも十分くらい早く、いつもの通りにやってきてこの窓際に席を取ったのだ。まあ、会計は先方がするわけだからお絞りで手を拭った後は大人しく水を飲みながら表通りの様子などガラス越しに眺めていた。この近くには大きな公園があって、ここからも一本の杉の大木の頭がちょこんと見える。  珍しい事はあるもので、今日は先方が定刻前にやってきたのでそう長くぼんやりしていたわけでもない。飲み慣れた珈琲を美味しくいただき、ぴったり一時間の会話をして終わり。話している内に空はみるみる暗くなり、しまいにばらばらと降り出した。  女がいつからこの店にいたのかは分からない。入った時は見た覚えが無いのだから、きっと話をしている間にやってきた客だろう。この小さくて流行らない店の事だ。見掛けない客がいれば目立つ。  本降りになる前に、という事で例のお相手は用件が済めばさっさと走り出て行ってしまった。勿論会計はしてくれたので有り難く残りの珈琲を啜っていた。  贔屓目にも繁盛しているとは言えない町外れの喫茶店なのだが味は一級品だと思う。一時間経っても美味しくいただけるし、この香りにほっとする。もう一年以上もずっと通っているものだから生活の一部と言って良い。場所が場所ならば始終店内は賑やかで仕事で使うにもさぞや落ち着かない事だったと思う。  店主には悪いが、ここがいつまでも流行らない事を祈る。何しろ貧乏語学教師にとっては掛け替えの無い環境だ。 「へえ、日本語を教えてるんですね」 心中見透かされた様な声にドキリとさせられた。女がいつの間にか私の座る真横に立っていた。ラフな外見の所為か、あけすけな口調も相手を身構えさせない。しかし驚いた。店主以外ではここで誰かに声を掛けられたのは初めてだった。  そんな経緯で本日は長居となり、注文し直した珈琲が二つ乗っかったテーブルを挟んでプリン頭のこの女と向かい合って座っているというわけだ。  唯「女」と呼び捨てるのは些か無作法であっただろうか。小皿に盛られたクッキーを齧るこの「女の子」は見れば見る程あどけない。因みに菓子の方は店主からのサービス。珍しい事は続く。
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