忘れても

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 ヒマリは今よりずっと小さい、それこそ今の妹くらいしかない小さな手を、母とつないでいた。  母は反対の手に、薄くてツヤツヤした布で出来た買い物袋を提げている。袋の口から大根の緑色の頭がのぞいていた。ヒマリは反対の手に、黄色い花を握っていた。  玄関をくぐると、ヒマリは吹っ飛ばすように靴を脱いで、廊下を駆けた。手を洗いなさい、と母の声が追いかけてくるが、それさえも振り切る。  リビングに駆け込むと、ソレはいた。  優しくほほ笑んでくれた顔も、名前を呼んでくれた声も、もう思い出せない。  薄紅色が、いつものように窓際に座って、ヒマリを迎えてくれた。 「ちいっ!」  花を差し出すヒマリの小さな手を、白い手がそっと包んだ。 「大丈夫。君は幸せになるよ。」  何か、暖かいものが頭に触れた気がして、ヒマリはパチリと目を開いた。  カーテンを開けたままの部屋に、夕日のオレンジが差し込んできている。体を起こすと、肩から膝へとタオルケットが滑り落ちた。  眠ったおかげだろうか、胸にたまっていたドロドロしたものが抜けていた。  ヒマリはイルカをベッドの端に戻して、タオルケットをマントのように肩にかけ直した。交差させた両手で押さえて、後ろに引きずりながら部屋を出る。  階段を下って、リビングに入ると、テレビの前に父親がいた。お仕事のスーツを脱いで、Tシャツとゆるゆるのズボンに着替えている。  座卓に頰づえをついてぼーっと子供番組を見ている。膝の上で妹がすぴすぴと寝ていた。 「……おかえりなさい。」 「おー。ただいま、ヒマリ。」  父はヒマリに気がつくと、ひらりと片手を振った。それからその手で招く。ヒマリは素直に近づいて行くと、隣に座った。父の目がテレビへと戻る。 「友達とケンカしたんだって?」  ヒマリは応えない。うつむいてじっと自分の膝をにらむ。大きな手が伸びてきて、ぽんぽんと頭をなでられた。 「大丈夫だよ。明日には絶対仲直り出来る。」  軽い口調で言い切る父が恨めしくて、ヒマリはさらに頭を沈ませる。 「どうして?」 「そういうもんなんだよ。俺もそうだった。ケンカすると、次の日には問題が解決したり、謝るきっかけが出来たりするんだ。」 「ふーん。」  そんなうまくいくだろうか。どこに行ったか分からない消しゴムが、いきなりポッと出てきたりするだろうか。  ヒマリは自身のスカートの裾を、手でグシグシとすり合わせる。 「きっと、誰かが見守ってくれてるんだ。」  ぴたり。ヒマリの手が止まる。しばらく待っても父が続けないので、口を開く。 「それって、ヒナタと話してる人?」 「お前も話してたよ。」 「覚えてないよ、そんなの。」 「二人もそう言ってたなー。」  ヒマリのすねてそっけなくなった声に父が笑って応じた。 「小さい頃はお前も話してたんだぞって言われても、みんなそんなわけないって言うらしい。父さん、お前のおじいちゃんもそうだったってさ。」 「お父さんは、なかったんでしょ。」 「俺も全く覚えてないから、ホントはどうだったのか全然分かんないけどな。」  ケラケラ笑って、父がこちらを振り返る。 「でも、みんなと同じように、不思議なことはちゃんと起こったよ。」  頰づえにしていた手を入れ替えて、ヒマリの顔をのぞきこむ。妹はまだ眠っている。 「父さんに怒られた後、自分の部屋で泣いてたら、廊下から花びらが吹き込んできたりとか。すっごい失敗しちゃって、めちゃくちゃへこんでたのに、ちょっと寝ただけでスッキリしててさ、もっと良いチャンスが巡って来たりとか。」  また大きな手が伸びてきて、ヒマリの頭を乱暴にガシガシとなでた。 「ヒマリが願うなら、物事はきっともっと良い方へ巡っていくよ。目の前に来たチャンスを、ヒマリがつかもうと手を伸ばしさえすれば。ヒマリが幸せでありますようにって、お父さんもそう祈ってるんだから。」  頭を揺らされながら、ヒマリは考える。父の話はよく分からない。でも、ヒマリは口の中で、チャンス、とつぶやいた。  ***  朝、学校に着くと、げた箱に面した廊下にフミカがいた。  背負ったランドセルを壁に押し付けるようにして立っている。ぎゅっと唇を引き結んで、じぃっとヒマリを見つめている。  おそらく、話をしようとヒマリを待ってくれていた。  でも、まだ許せないのかもしれない。彼女の口はへの字にゆがんでいて、目はうるんでいる。目元が赤く腫れているのは、きっとお互い様だろう。  何を言おう。  チャンスが来れば今度こそ謝るつもりだった。でも、心の準備が整う前に来てしまって、何から言えばいいのか分からない。  二人は廊下の端で向かい合ったまま、じっと黙っていた。 「フミカっ、ヒマリっ。」  向こうからハヅキが駆けて来た。後ろに同じクラスの女の子を一人連れている。いつも自分の席に一人でいる子で、ヒマリは話したことがない。 「なんだよお前ら、まってたのにっ。ぜんぜん来ねーから、二人とも休んじまったのかと思ったじゃんっ。」  すぐ近くまで来たハヅキへ、フミカの視線がじろっと移る。 「……めずらしいわね。あんたがこんな早くから来てるなんて。」 「んー、まあ、ちょっとな。それより、ケシゴム見つかったぞ。」 「えっ?」  朗報に、ヒマリとフミカが同時に声をあげる。瞬間、ハヅキの後ろに控えていた女の子ががばりと頭を下げた。髪がぱさりと彼女の顔を覆ってしまう。 「ごめんなさいっ! きのう、わたしがひろったの! 本当にごめんなさいっ!」  彼女はぱっと顔を上げると、握っていた手を解いてフミカへと差し出した。重ねた両手に、桃色の消しゴムが乗っていた。震えるその手から、フミカは奪うように消しゴムを取って、胸元へ引き寄せた。ぎゅうぎゅう握りしめる。 「よかったっ。よかったぁ……っ。」  涙をこぼしながら繰り返すフミカを見て、ハヅキがほっと息をついた。一度フミカへ視線を向けてから、ヒマリは女の子へ向き直る。女の子は我慢しているようだが、もう半泣きだ。 「あの、どこにおちてたの?」 「その、ろうかにおちてたの。ごめんなさい、すぐ教室にもどればよかったのに。わたし、お家のようじでいそいでたの。明日、先生にわたせばいいやって思っちゃって……っ」  言葉の途中で、ついに彼女の目が決壊する。ぶわっと涙があふれた。 「そのっせいで、こんなこと、に、なってるなんてっ知らなくて……っ。本当にごめんなさい……っ!」  わんわんと泣く二人を、げた箱から教室へと向かう児童達が不思議そうに見やる。 「ろうかまでころがってたんだ……。」 「だれかが、けっとばしたのかもな。」  ヒマリがつぶやくと、ハヅキがうなずいた。  ヒマリは一度息を吐くと、ぐっと胸の前で手を握りしめた。 「フミちゃんっ。」  フミカのぱっちりとした目がヒマリへ向く。ヒマリは彼女へ向き直って深く頭を下げた。 「ケシゴムおとして、ごめんなさい!」  あと何か、何か謝るべきことはないか。何て続ければ仲直り出来るんだ。  えっと、と次の言葉を悩むヒマリへとフミカが飛びついてきた。驚いて顔を上げたヒマリの首に抱きつく。 「わたしもごめんなさい! ヒマリちゃんっわざとじゃないって、どろぼうなんてしないって、ちゃんと分かってたのにっ! ごめんなさい! ゼッコウなんてヤダよぉっ。」  ヒマリに抱きついたまま、ひっくひっくとしゃくりあげる。昨日は驚く余裕なんてなかったが、いつもしっかりしているフミカのこんな様子は珍しくて、ヒマリは戸惑ってしまう。  でも、きっと、これで仲直り出来たのだ。  ヒマリはフミカの腕の中でみじろぐと、女の子、ミホを振り返った。ビクッと震えたミホに、違う違うと首を横に振る。 「ひろってくれてありがとう、ミホちゃん。」 「ホントたすかったよな。きのう、ろうかまではさがさなかったもんな、そういや。」  涙を手の甲で拭いながら、フミカもヒマリから離れてミホに向き直る。 「ひろってもらえなかったら、もっととおくに、けられちゃってたかもしれないものね。」  フミカがミホの手を無理やり引いて、上下に振る。 「お姉ちゃんにもらったケシゴムなの。本当にありがとう。」 「あの、でも、わたし……っ」  戸惑うミホの背をハヅキがぽんぽんとたたく。 「もうぜんぶカイケツってことで、教室行こーぜ。ずっとここにいるとさすがにジャマだろーし。」  三人でミホを押しながら、廊下を進む。  隣に並ぶフミカを振り返って、ヒマリは笑った。  *** 「やっぱり、わたしの家、なにかいるみたいなの。」  校庭のチェーンジャングルジムに少女が四人集まっている。  おしゃべりの合間に一人がそう切り出すと、二人が、またその話か、と笑った。  残った一人が、え? と声をあげて目を丸くした。  END
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