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すぐに見えなくなるはずだった。
そのはずだったのだ。
「椎」は押し入れの中で膝を抱えながら、ため息をついた。
ガラガラと玄関方向から引き戸を開ける音がした。続いて、また同じ音で閉まる。ばたばたと木の廊下を小さな足音が駆けてくる。廊下と子供部屋を遮るふすまを開け放つと、足音の主はそのままの勢いで押し入れのふすまもぱしんっと開けた。
「椎! ただいまーっ!」
黄色のランドセルを背負った、活発そうなショートヘアの少女は、椎の両手をつかむと力任せに引っ張り出した。
「ちょっと、ヒナコ……っ」
「ただいまっただいまっ椎!」
少女はきゃっきゃっと笑う。その笑顔は七年前と何一つ変わらない。
ころころ布団を転がっていた赤ん坊は、たった七年の歳月で椎と同じくらいの大きさに成長した。それは構わない。いつものことだ。すぐ追い抜かれるだろう。
だというのに、それくらいの歳になっても彼女はいまだに椎が見えていた。こんなことは初めてで、椎はどうしたらいいか分からない。
押し入れから引っ張り出されるのも、腕をつかまれて振り回されるのも、挙げ句の果て外に連れ出されそうになるのも、「おはよう」や「おやすみ」、「おかえり」をせがまれるのも、髪紐を奪われて他のリボンを結ばれるのも、名前を勝手につけられるのも、全部全部初めてで、何一つ対処法が分からなかった。
きゃっきゃっと跳ね回っている幼児とそう変わらない小学生に、ため息をつく。今は、一つだけ対処の仕方を知っていた。
「……おかえりなさい、ヒナコ。」
「うんっただいまっ。」
さらに輝かしい笑顔をにぱっと向けてきたが、跳ね回るのは止まった。
自分が挨拶をする日が来るとは思っていなかった。
自分の挨拶を受け取る人が現れるとは思っていなかった。
ずっとずっと、思いしもしなかった。
***
「椎っ外で遊ぼうよー。私、外で遊びたいよー。」
子供部屋の隅に座り込む椎にべったり張り付いて、ヒナコが唇をとがらせる。椎は手元の赤い折り紙に視線を落としたまま答えた。
「いってらっしゃい。」
「椎も一緒に行こーっ。椎、いっつも押し入れに引きこもってんだもんっ。不健康だよっ。」
「不健康で結構。」
「良くないよー。早死にするよ!」
ヒナコがびしっと指を突きつけてくる。椎はそんな彼女を見上げてぱちりと目を瞬かせた。ヒナコが言ってやった、と言わんばかりの笑顔でふんっと鼻を鳴らす。
「……へぇ。」
「反応薄いっ。だめだよ椎っ早死にしちゃだめなんだよ! 私を置いてったら許さないんだから!」
ヒナコはなおも叫び声をあげて、ぎゅうぎゅう椎に抱きついた。いったいこの子は自分を何だと思っているのだろう。心の中で椎はため息をつく。
ふすまがすぱんっとスライドした。
現れたのは、目元がヒナコによく似た少年だった。黒いランドセルを背負っているが、来年中学校に上がる彼には少々きつそうに見える。
「うっせーぞヒナコ! なに一人ではしゃいでやがる!」
「兄ちゃんには一切関係ないので消えうせやがれ。」
「てめぇっ兄貴になんて口利きやがる!」
「お兄様、あなたと空間を共有したくないので、ご退室をお願いできますか。」
「ヒナコさん、表にいらっしゃってください。」
「お断りいたします。」
少年はランドセルを自分の机の横にほうると、転がっていたショルダーバッグをひっつかんだ。部屋を出ようとすぐに引き返す。
「一人遊びは勝手だけどな、あんま近所メーワクな騒ぎ方すんなよ。」
「はあーい。あ、兄ちゃん。」
妹の呼びかけに、少年が足を廊下に片方出したままこちらを振り返る。
「あ?」
ヒナコは真面目な顔で首をかしげた。
「私、何の話してたんだっけ……?」
「知るか。俺に聞くな。」
少年は眉間のしわを深くすると、乱暴にふすまを閉めて行ってしまった。
「あれれー? 何だったっけ? 肌年齢?」
「いや、違うよ。」
はてはてと疑問符を浮かべるヒナコに、椎は首を横に振る。ふと笑った。まだ悩んでいるヒナコは気がつかない。
「ヒナコが気にすることじゃなかったよ。」
「そうだっけ?」
「うん。何も心配いらない。」
自分がヒナコより先に死ぬなんて、ありえない。そもそも、自分に対して死というものが存在するのかも疑わしいのだから。
「うーん? ま、いっか。それよりさ、椎っ連ヅル折って!」
「また?」
「うん。こないだのね、友達が折ってくれたんだーってユキちゃん達に見せたら、すごーいってほしーいって言われちゃってさ。」
「……あげちゃったの?」
「うんっ。」
「……折ったの私なのに?」
「うんっ。椎はすごいよねっ。」
「…………。」
「だから、また折って?」
無邪気に笑うヒナコに、言葉を飲み込む。この子の性格はもうよく分かっていた。父親の幼い頃とそっくりである。あの頃ははたから見ていて、毎日のように振り回されている彼の弟が可哀相だと思っていたが、実際標的にされると案外どうでも良くなることを、この度知った。
他の人がどう思っているのか、椎には盗み聞きする以外に知る術がないが、椎は彼女のワガママを聞くことを悪くないと思っていた。
誰かと話すことがこんなに楽しいなんて知らなかった。
隣から声が返ってくることがこんなにうれしいなんて知らなかった。
***
廊下の向こうから、玄関の引き戸の開く音が響く。誰か帰ってきたのだ。ばたばたと騒がしい足音はヒナコのものだろう。もうすぐ中学生だというのに、落ち着きのかけらもない彼女に椎は自然と笑みをこぼす。丁度押し入れから出ていた椎は、壁際に座ったまま彼女を待った。
廊下に続くふすまが開く。
「ヒナ……」
ヒナコはじっと部屋を眺めると、つかつかと奥に進んだ。いつもなら真っすぐ自分に飛びついてくるのに、常とは違う彼女の行動に、椎は口にしかけた彼女の名を思わず飲み込む。彼女は押し入れのふすまを開けると、のぞき込んで首をかしげた。
「椎?」
「ヒナコ?」
そちらも呼んだくせに、椎の呼びかけには答えずにヒナコはうろうろと部屋を出て行く。なぜか向けられてしまったその背を追うように椎は立ち上がる。
「ヒナコ、どうしたの?」
「椎? 椎、どこー?」
迷子になった猫を探すように、きょろきょろとあちこちの部屋をのぞき込むヒナコの姿に、椎の素足が冷たい廊下で立ち止まる。動かなくなったのは足だけではなくて、凍りついてしまったように椎は全身をこわばらせた。大きく目を見開く。
その目に映るのは、自分を探して遠ざかって行く彼女の背中。
……今朝は見えていたのに? 聞こえていたのに?
「ヒナコ……っ。」
「椎っ? 椎ったらどこにいるの?」
奥の部屋まで見終わったのだろう、行きと同じく、いや行きよりも注意深く部屋をのぞき込みながらヒナコが戻ってくる。
「椎? めずらしいね、椎からかくれんぼしかけてくるなんて。でもね、こういうのはちゃーんと、鬼決めてからやらないと公平じゃないよ。」
幼い頃から今まで、自分は好き勝手に人を鬼にしたり鬼になったりと気まぐれに過ごしているというのに、今更お前が公平さを人に説くのか。
本当にワガママな子だと、いつもなら苦笑するのに。椎の顔は目はヒナコを見つめたまま動かない。
「仕切り直しよっ椎っ。じゃんけんから始めるの。」
何かを押さえるように、ヒナコはやけに早口で文句を紡ぎ続けた。始めの部屋に戻る。
カラフルなおもちゃや、人形の家、紙の工作があふれる押し入れは開け放たれたままで、そこには誰も居ない。だって、押し入れの住人は今、廊下に立ち尽くしているのだ。
「……っ私の、」
ヒナコは大きく息を吸って言葉を吐き出そうとした。彼女の肩が胸が膨らんだ。彼女以外誰もいない部屋に息を吸う音が大きく響く。それは子供が泣き出す準備によく似ていた。
「私の、負けで良いから出てきてよっ! そんでリベンジ! 二回戦!」
木霊するほど大きく大きく声が響く。軽く息を吐きながらヒナコはそこにじっと立っていたが、返ってこない声にしびれを切らしたのか、部屋を飛び出して家中をかけずり回った。
「椎……っ椎ったら……っねえっ」
もう自分をごまかせなくて、ぽろりと涙がほほを伝った。
「私、言ったよ。いなくなっちゃヤダって言った……っ。」
「ヒナコ、私ここにいるよ。」
「置いてったら許さないって……っ私言ったよ……っ!」
「置いてってないよ。いるよ。私、ここにいるよ。」
「言ったよ、ヤダって、私、言った……っ言ったよ椎っ!」
人より長かっただけなのだ。
人より「不思議」が見える期間が長かっただけなのだ。
ただ、それだけだったのだ。
探し疲れて、泣き疲れて、部屋の隅でうずくまるヒナコを椎はそっと抱き締めた。呼んでも、触れても、抱き締めても、もうヒナコは椎が分からなかった。もう、椎を見なかった。
誰かと話せないことがこんなに寂しいなんて知らなかった。
隣から声が返ってこないことがこんなに悲しいなんて知らなかった。
***
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