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次の春、ヒナコは中学生になった。あの日からしばらく、どんよりと落ち込んで周りに心配をかけたが、今はもう、本来の明るい彼女に戻っていた。
セーラー襟の制服を着て、元気に家を飛び出して行く姿を見て、椎はほっと胸をなで下ろした。ヒナコが元気でいてくれれば、それだけで良かった。
14歳。ヒナコが友達とケンカをした。いつかのように、どんよりと雨雲を背負って椅子の上で丸まっている。自分自身をあやすように、時折体を揺すっている。その背を、椎はとんとんとたたいた。
「大丈夫。君は幸せになるよ。」
16歳。ヒナコが失恋した。せっかく何日も何日も告白の言葉を練っていたのに、あっけなく玉砕した。机に突っ伏して、ぐずっと鼻を鳴らしている。その頭を、椎はよしよしとなでた。
「大丈夫。君は幸せになるよ。」
17歳。ヒナコは大学に進学を決めた。毎晩毎晩、遅くまで勉強しているから、無理をしているのではないかと心配だ。今も机で背を丸めて寝ている。その背に、椎は引きずって来た毛布をかけた。
「大丈夫。君は幸せになるよ。」
18歳。ヒナコが遠くの大学に受かった。発表日は、小さな頃のように家中をぴょこひょこ跳ね回っていた。もうそばで見守れないことは寂しかったが、彼女の頑張りが報われたのだと、うれしかった。寝ているヒナコの顔を、椎はそっとのぞき込んだ。
「君は幸せになるよ。」
ずっと祈ってるよ。遠く離れてしまっても、変わらずに。
ヒナコがいない春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、春が来て、季節がぐるっと巡った。ヒナコの兄が女の人を一人連れてきた。その人はこの家の新しい住人になった。
また景色がぐるっと巡って、次の年の夏、新しい住人が生まれた。小さな小さな住人。その子は父親より、母親より、祖母に似ていた。……叔母に似ていた。
赤子の頭をなでると、彼がにぱぁーっと笑った。笑い方は同じ頃の父親と同じだった。
その子が歩き回るようになると、椎はその子に会わなくなった。
姿を見られるのが恐かった。声を聞かれるのが恐かった。存在を知られるのが恐かった。一方的で構わないのだ、自分の想いは。もう、自分のせいで大切な人が泣くのは嫌だった。
幸せになって欲しいのだ。
***
春が来た。お隣の庭の木がひらひらと薄紅色の花びらをこぼしている。それが地面を覆っていくのを、椎は窓からぼんやりと眺めた。
今日はあの子の入園式だ。泣いていないだろうか。友達はできるだろうか。両手を重ねてぎゅっとにぎる。目をつむる。
ガラッと引き戸が音をたてた。はて、と首をかしげる。今日は住人全員が、あの子の入園式に出向いているはずだ。耳を済ませていると、パタパタと二人分の足音が響いてきた。
「なあ、誰もいないんだけど。」
「あれー? おかしいなぁ。……あ! ヒロくんの入園式って今日か!」
「お前……っ。そういうのは事前にちゃんと確認しとけよ!」
「んー、ちゃんと聞いたんだよ? ちゃんと聞いたんだけど、忘れたの。」
「お前なぁっ。」
あっけらかんと笑う女性に、隣の男性がこめかみを押さえた。どこかで聞いたようなやり取りだ。十数年間見守ってきたやり取りと、よく似ていた。隣で応える人は変わったけれど。
「ヒナコ……?」
聞こえないのは分かっていた。それでも名前を呼ばずにはいられなかった。
髪が肩を越える長さまで伸ばされていて、最後に見た時よりずっと大人びて見えた。けれど、声と笑顔は少しも変わっていなかった。あの頃のままのヒナコだった。
隣に立つ男性が恋人なのか友人なのか、椎には分からなかったが、ただただ、うれしかった。ほっとした。涙があふれた。
遠く離れた場所、自分には分からない場所でもヒナコはちゃんと元気だった。隣にいてくれる人を見つけていた。笑い合える人がいた。
ちゃんと幸せだった。
「おかえりなさい、ヒナコ。」
***
窓際に座って、外を仰ぎ見る。網戸の向こうで、青い青い空にもこもこと膨らんだ雲が浮かんでいる。扇風機の風切り音を、染みてくるセミの鳴き声がかき消していた。雲の縁を目線でなぞっていると、ぽすり、と何かが腰にぶつかってきた。
「あー。」
四つんばいの赤ん坊が頭から突っ込んできたらしい。ぷくぷくの手が帯をつかんだ。それは気にした様子もなく、赤ん坊の後方へと目を向けた。
5歳の少女がお気に入りのイルカのぬいぐるみを抱き締めて、くーくーと寝息をたてている。妹が横からはい出したからだろう、タオルケットが乱れて布団の上からはみ出していた。
「ちぃー。」
赤ん坊が無理やり膝に乗り上げて来る。それはため息をつくと、赤ん坊の腰を抱えた。体を反転させてやって、相手の背と自分の腹がつくようにする。赤ん坊はうごうごと身じろぎして、収まりが良くなると、うれしそうにそれを見上げた。
「ちぃー。」
きゃっきゃっとはしゃぐ彼女の頭を、それはなでる。
「君は幸せになるよ。」
私がいっぱいいっぱい祈るよ。
END
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