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しかし息詰まる静寂を破ったのは、
「春さん!」
やはり鈴音だった。
夏樹の脇をすり抜けて、春一の名を呼んで、ひとりフロアの中に降りていく。
そこで春一は、ようやっと拳をおろした。
サンドバッグを叩くのを止める。
それまで揺さぶられていたサンドバッグが、惰性でキーキーと耳障りな音をたてる。
「……春さん」
鈴音も足を止めてしまう。
別に春一が何かしたわけじゃない。
ただ鈴音に気づいたらしく、ほんの僅か、髪を揺らしただけだ。
それだけで、
「――」
鈴音の体が竦んでしまった。
「……っ」
何か言おうと口を開くが、声にならない不明瞭な音が漏れただけ。
鈴音に名前を呼ばれても、春一は顔をあげなかった。
こちらを見ようともしない。
何故だ――。
鈴音がせっかく呼んだのに、それが恐れていたことでもあったように、何かに耐えるようにうつむいたままでいる。
夏樹は唾を飲んで、突っ込むように足を動かす。
一歩目が出れば、後は勢いで進む。
気力が挫けないように必死で手足を動かし、春一の前まできて、その手首を掴みあげた。
「バカ春――」
掴んだ手首にツウーッと血が滴り、夏樹の手まで汚す。
「いつから殴ってたんだよ」
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