第3話

2/5
前へ
/36ページ
次へ
 菜々子が松川城に用がある言うので、翼は一緒に登城口を登っている。うだるような暑さ。土曜日の松川城は、思ったよりも観光客が少ない。そうだろう、この暑さだ。観光客も涼しい屋内から動きたくないに違いない。  ロープウェイで上がれば手軽なのに、菜々子は歩くと言う。理由を訊けば、登録するマネキン派遣会社から、松川城での観光案内を打診されたと言うのだ。普段はスーパーなどで試食を勧めたりするようなバイトを単発でしている菜々子だが、この観光案内は長期の契約になる。  袴姿で観光客に笑顔を振りまく。『マドンナ』と呼ばれる、夏目漱石の小説に出てくる登場人物になり切って、城内をあちこち動き写真を撮られる。派遣会社の中でも、見た目の良い女の子に割り振られる仕事だ。髪が短い菜々子は、自分に声がかかるだなんて思ってもみなかった。  松川城に上がってみて、仕事のイメージが湧けば受けようかと思っている。暑い中の屋外の仕事。しかも分厚い袴姿だ。体力は持つのか、試してみようと思ったのだが……。 「あーあっつい。もー菜々子やめといた方がいいって。死ぬよーこのクソ暑い中屋外でうろうろするなんて。涼しいスーパーでキウイ食べさせてる方が絶対いいよ。やめやめ。マドンナなんかいなくても、観光客は気にしやしないよ」  翼はあれこれと文句を言いながらついて来る。確かに暑い。傾斜もきつい。これを笑顔で登ったり降りたりを繰り返すのが仕事だという。さすがに菜々子も自信を失ってきた。どうにか登り切った本丸広場も、観光客はまばら。望む松川城に、陽炎が立つのではないかと思う程の炎天下だ。 「確かに……ちょっとしんどいな。楽しそうだから、やってみたかったんだけど。疲れた、翼、アイス食べよう……?」  右手に見える茶屋には、ソフトクリームの看板がかかっている。ナイスアイデア、ちょっと待っててと言って、茶屋をのぞいた翼の手からソフトクリームを受け取って。  東屋で涼みながら、菜々子と翼はソフトクリームを舐める。菜々子はいつものバニラ、翼はいつもの抹茶。はー、と息を吐いて汗を拭く菜々子のとなりで、翼はもたれている井戸の蓋をしきりに気にする。大きな四角い木造りの井戸。真新しい木の蓋が乗せられている。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加