最強を越えるもの

3/18
前へ
/18ページ
次へ
 犯罪者にならなかったのは、ひとえに、けんかに弱いから、その手の不良の花道に走れなかっただけに過ぎないといっても過言ではないのだ。  そのきれいな面相を使って、おろかな女性を垂らしこんで、金を巻き上げる色男の道も、弟の卓との間に生まれた妙な矜持のおかげで、彼の人生の選択肢にはならなかったのである。  もし・・  もし、この弟の卓さえいなければ、自分は、安心して悪の道に踏み込んでいたかもしれない。そういう無残なものの存在の自覚が、彼の胸の中にある。  根性で、野球では甲子園、東大に進学し、末は高級官僚になって、あるいは政治家になってこの国の舵取りも出来るようになりあがってみせる。その立身出世が、彼、東丈の人生目標になっていたのである。弟の卓がいたからだ。  そんな中で、聞いた話がある。母は、もし父の竜太郎と結婚していなければ、有名重工業創業家の青年と結ばれていたかもしれないというのだ。母は、敗戦出没落したとはいえ、そこそこの”家柄”、”緒方さま”のお嬢さんだったのである。  もし、母がその青年と結婚していれば、自分の人生は、まったく変わっていたのではないか・・そう、考えたときもある。  それこそ、歴史のIF・・というものだろう。うろ覚えだが、確か、北野・・といったはずだ。   ********  北野雪子は”壊れて”しまった。  ”小鳥はみんな、歌が好き・・”うつろな目をして、不意に謳いだしたのだ。  その失調した歌声が、夜更けのエド・メガロポリスに、異様に響いていく。  もしかしたら、それは、人が死ぬ以上に、恐ろしいことなのでは無いかと、俺は改めて知らされることになる。  肉体が壊れるのではない、魂が、壊れるのだ。  その現実を、いまさらながらに知らされて、オレは愕然とするしかなかった。  もし、人の魂が、死して後も不滅ならば、狂人は、未来永劫狂ったままになってしまうということか。それまでは、ただの想像だったのが、今、俺の目の前に厳然と現れたのだ。  俺は・・動けなかった。あのまま、彼女を行かせてはならないと、病院に入れて、治療を受けさせれば、直る可能性だってあると、わかっていたはずなのに。  俺は、動けなかったのである。  あの狂った女を恐れ、あとずさることさえしたのだ。 俺は、クズだった。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加