一輪の花

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 夕風が前髪を揺らしていた。なんとなく風上に目を向けると随分離れた場所に鮮やかな黄色がぽつんと見えた。その小さな塊はさながら草原に咲く一輪の花。だが距離を考えると実際は小さくもなんともないのかもしれない。  ──恐らくは人。女性のドレス。  反射的に脳裏に浮かべたのは今日の姉だ。確か深い緑色のドレスを着ていた。赤い髪に似合う最適の色を求めて何週間も前から大騒ぎしていたから間違いない。  ここから見えるあの黄色は姉の緑には程遠い。だがこの黄金色の陽光を浴びればもしかするとあんな色に見えるものかもしれない。  石畳の小径を逸れて緩やかな下り坂を行く。柔らかな草の上をまっすぐに視線を滑らせていけば低木の茂みにぶつかった。その先は湖だ。金色に輝く湖面は細波が立って実にきらきらしい。  目指す黄色い花はその低木より遥かに手前だ──そう知覚したアッシュの足下で何かが跳ねた。見る間に草むらに姿を消してしまったそれが()()()であると認識した瞬間、アッシュは足を止めていた。  姉は極度の虫嫌いである。男児に人気のカブトムシはもちろん女児が大好きな蝶も含め、虫と名のつくものを目にした瞬間けたたましい悲鳴を上げる。その姉が、こんなバッタのいる草むらにずっと伏せていられるだろうか。  ──人違いか。  小さく息をつき、アッシュは踵を返そうとした。身体を反転させつつ肩越しに目に入れた女性は身じろぎひとつしていなかった。動く気配もないようだ。  結局あの人は何をしているのか。考えられることはいろいろあるが──そうして幾つか可能性を思い浮かべた次の瞬間、アッシュは顔色を変えた。  お気楽に昼寝を楽しんでいるとか、あるいは何か嫌なことがあって拗ねているとか、そういった類いであればいい。問題は、もしあれが()()()()()()()()ものでなかったとしたら──。 「どうされました? どこかご気分でも……」  慌てて駆け寄り、件の人物をつぶさに観察する。と言ってもこの状態でわかることは髪色が黒だとか、うなじや足首が細いことくらいのものだ。  身体を上向けるか起こすべきかと伸ばしかけた手はそのままピタリと止まった。明るい黄色のドレスを着たその人は、予想に反し素早い動作で半身を起こした。  目があって、時が止まった。  年は同じ頃だろうか、あどけなさの残る顔立ちをしている。頭の横から編みこまれた髪には生花が挿され、毛先は花を模した銀細工のバレッタで一つに(まと)められていた。榛色の瞳はアッシュを捉えると「ごめん」とばつが悪そうに笑った。 「なんでもないんだ。珍しい虫を見つけて、つい」 「……ムシ」  彼女の視線の先を辿り、アッシュは合点がいった。白い野花の上に小さな甲虫がちょこんと乗っていた。長い触覚を持ち、光の加減で体躯を七色に煌めかせるその虫には遠い昔の幼い自分もはしゃいだ覚えがある。 「ニジイロハナカミキリですね」 「ニジ……何だって?」 「ニジイロハナカミキリ。カミキリムシの一種です」 「ああ、カミキリムシなんだ、これ」  彼女は甲虫に顔を近付けしげしげと眺めた。 「……虫がお好きなんですか?」  小さな驚きを持ってアッシュは尋ねた。女性というのは大なり小なり虫を苦手にしていると思っていた。それが目の前の彼女は全く物怖じしないどころか逆に興味があるようだ。また実際にカミキリムシを知っていたこともアッシュの心に新鮮な風を吹かせていた。 「まあ、嫌いではないかな」  彼女は落ち着き払って身体を起こした。結わずに残した横髪を指に巻きつけながらうーんと宙を見上げている。 「なんでこんな色してるんだろうとか考えるとね、面白いし楽しい」 「色ですか。確かに興味をそそられる色ですよね。ニジイロハナカミキリに関して言えば、光を反射させることで天敵の目を眩ませるんだそうですよ。ハナカミキリの名の由来は花粉や花の蜜を主食とするところからきていて、普段は花の上にいることが多いんです。そうすると上空の鳥などからは一目瞭然なので……っと。……すみません、つい語ってしまいました」  アッシュは頬を掻いた。経験上こういう話は嫌というほど敬遠されてきたのにまたやってしまった。好きなことを語り出すとつい熱が入り過ぎる。これが女性受けする内容ならば問題ないのだろうが虫の話はさすがに場違いであろう。  だが目の前の彼女の表情は至って明るいままだった。 「なんで謝るの? とても興味深いしボクは好きだな。もっと聞かせてよ」  口許を綻ばせ小首を傾げる様にアッシュは胸が熱くなる思いがした。こんな反応を返してきた女性は初めてだ。  甲虫に再び目を落とした彼女は感心したように小さく息をついた。 「ある意味、好戦的な虫なんだね」 「好戦的ですか?」 「だって擬態して隠れるんじゃなくて、見つかった後を見越しての色ってことでしょ。天敵にばれても別に構わないんだ、この子。良い根性してると思うよ。あ、ばれてもいいってことはもしかして毒持ってるのかな」 「……毒はなかったと思います」  彼女にとっては大発見の連続なのだろう、キラキラと瞳を輝かせ考察を続ける様子にアッシュもつられて口角を上げる。  思えば虫の根性を褒める女性というのも初めてだ。
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