5人が本棚に入れています
本棚に追加
ひとりの痩せた男がぬらりと起立していた。擦り切った藍色の着物。一見して浪人と思しき出で立ち。男の足元には、割れた杯が散乱している。異常なまでに血走った眼は、間違いなく柴原親子に向けられていた。 獲物を狙う狼の如く。
浪人は刀を鞘からスラリと抜く。
刀を握った右肩を後ろへスッと引いた。
ただ無言のまま、突きの姿勢で突進してきた。
酒を拭くことに気をとらわれていた零弦も、男の襲撃に感づく。あいにく刀は座敷に置いたまま。手に取る余裕は無い。
されども、零弦。
とっさの反応だった。手にしていた己の着物を、浪人の刀目掛けて振り払う。巧い具合に、着物は刀身に巻き付けられた。
が、わずかな切先だけがギラリと鋭く顔を覗かせる。なおも零弦の腹部に向かってくる。
「父上っ!」
正兵衛は叫んだ。庇うべく零弦に体当たりを試みる。零弦と正兵衛の二人はもんどりうって店の中を転がった。
娘の悲鳴が上がった。店主は慌てて顔を出し、無関係な客たちは店から一斉に逃げ出していく。娘は腰を抜けて動けない。床にぺったりと座ったまま顔を両手で覆っている。
「怪我はございませぬかっ? 父上!」
「う、うむ」
とりあえず襲撃をかわした正兵衛は座敷から自分の刀を掴むや、鞘から抜き払った。
「父上も、早く刀をっ!」
「分かっておる」
零弦も隠居したとはいえ、中条流柴原派免許皆伝の腕前。刀さえ握れば遅れを取ることは先ず無い。
しかしである……。
最初のコメントを投稿しよう!