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袴着とは、五歳もしくは七歳になる男子に袴を初めて着せる儀式。彦丸は七歳になっていた。
うむ、と奥座敷の上座に構える初老の男が頷いた。白髪頭で、年齢の割には屈強な身体つき。山谷を飛ぶ鷹さえ射殺しそうな厳しい眼力。
この初老の男、名は柴原零弦(れいげん)。
剣道柴原派の先代当主を勤めた男だ。遠くは越前富田勢源の中条流を流れに組む柴原派を、江戸市中で知らぬ者はいないとまで栄えさせた。まさしく中興の祖といえる人物だった。
時は、天保三年(一八四三年)。
平穏な徳川の天下、長く他流為合が禁じられていたが、老中水野忠邦の武芸奨励策でようやく解禁となる。剣道が再び盛んになり始めた頃である。
「さて、彦丸や」
祖父零弦は言葉を寄越す。
「いずれ、おまえは父の跡を、つまりは柴原道場を継ぐこととなろう。そのためにも、これからは道場に顔を出し、稽古に精進せねばならないぞ」
並の子供ならば、「はい!」と元気良く返事をするものの、なぜか彦丸は顔を伏せたまま応えない。猫の如く背を丸めるばかりだ。
ぬぬっ、零弦の頬が強張った。
両者の遣り取りを真横から見守っていた彦丸の父、柴原正兵衛は内心慌てていた。
(なぜ、お爺に返事をせぬか?)
直接、彦丸を促そうかと思案する。
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