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それがどうしたことか、数日前のことである。彦丸はひょっこり道場へ首を出した。とはいえ、別に稽古に関心を持ち始めた訳では無さそうだった。
キョロキョロと忙しく誰かを捜している。
目当ては、祖父の零弦。祖父が竹刀を振るう様子を、道場の片隅でずっと見守っている。その眼差しは異常なまでの熱気を含んでいた。
ふと自身に向けられた視線に気づいた零弦。相手が彦丸だった事に大層喜んだ。さっそく孫を引っ張り、手ほどきを始めた。彦丸は零弦自らに稽古を付けられ、竹刀でしこたま打ち込まれる。遂には、身体が痛い痛いと泣きながら母親の元へ逃げ帰ってくる有様だった……。
(父上も、もう少しばかり手加減をしてくだされねば、彦丸とて益々剣道嫌いが進んでしまうものに)
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。庭から再び梟の鳴き声が聞こえてきた。
そろそろ頃合いであろう。察した正兵衛は、
「では、これにて……」
丁寧に挨拶をして腰を上げかける。
「待て、正兵衛」
「は?」
「わしは未だ話をしておらぬぞ」
零弦は正兵衛を呼び止めてきた。
用件は昼間の彦丸が為した粗相ではなかったのか?
(一体、如何なる話が? こんな夜分に?)
されど、正兵衛には心当たりが全く無い。とにかく再び座りなおす。いつの間にか、零弦の手元には一冊の書物が置かれていた。
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