第1章

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 どうと、水が波を打って希愛を呑み込んだ。希愛はふわりと水中に浮き、慌てて水面を目指した。どうにか顔を出す。メイクが落ちることも構わずに顔を拭って息をする。しかし後から後から水が流れ込んでくる。息ができない。死んでしまう。  途端、大きな影がふっと落ちてきた。  それは希愛の顔より大きな眼球だった。睫毛と瞼が付いた眼球から涙が滴り、その下には鼻や口がある。巨大な人面だ。顔は泣きながらこちらを覗き込んでいて──。  「あの」  という声で希愛は我に返った。お冷やを見つめていた目を慌てて持ち上げ、睫毛と瞼を紙ナプキンで押さえる。通路から、小学生ほどの女児がじっとこちらを見ていた。  「どうしたんですか?」  「あ、うん」  うろたえすぎて、言葉がつかえる。化粧の落ちた顔を見られてしまった恥ずかしさ。しかし女児は意外な言葉を口にした。  「大丈夫ですか?」  彼女の目は穏やかな色を浮かべていた。なぜこんな眼差しを向けてくれるのだろうと考え、希愛はふと気付く。もしかして自分は労られ、気遣われているのだろうか。そう思ったら、詰めていた息がふっと唇から漏れた。  「ありがと。もう平気」  どうにか微笑み、そそくさとお冷やを汲みに立つ。途中で嵐とすれ違う。嵐は何か言いたげに目を丸くしたが、希愛は無視した。  残った水を捨てる。コップを水道で軽くすすぐ。トングで氷をつまみ、空のコップに放り入れる。からん、かきんと氷どうしがぶつかり合う。その上から水を注ぐ。コップを持つ手に、心地良い冷感。  席に戻ると、嵐がけだるげに頬杖をついていた。長い脚が通路側に投げ出されている。  「ひでえ顔」  不機嫌な目が希愛を捕捉する。  「泣けばどうにかなると思ってんの? 悲劇のヒロイン? なんだかなあ。俺はしたいことをしただけなのに」  「でも私は悲しい」  「だから」  嵐が低く舌打ちし、  「めんどくせえなあ」  威嚇のように希愛を()めつける。  「他人がどうとか、関係ねえだろ? 人に迷惑をかけるなとか、昭和の価値観だろ?」  「そっか。自分がしたいかどうかってこと?」  「そうそう」  嵐の声音が露骨に和らぐ。懐柔のような笑みさえ浮かべ、続ける。  「自分が楽しければいいんだよ。それが“自由”」  「そうなんだ」
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