拍子鳴

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「天皇万歳!大正天皇万歳!天皇万歳!大正天皇万歳!」 西暦1912年 皇歴2572年 7月30日に時代の転換は起こった。蝉の鳴き声が騒がしい頃、市井は歓喜に溢れていた。 『新シキ時代、到来ス。大正天皇即位万歳』 激動の維新から半世紀。かの二大大国に勝利を収め、人々は洋装を装い、工場は黒煙を吐き出し、欧化主義が世間を席巻。大日本帝国全土の誰もが幸福を疑わなかった。 少なくとも、この男以外は。 「…天皇ねぇ。何がそんなにめでたいのか、理解に苦しむ」 この男、通称又は蔑称『風来道楽貴族』岩崎辰雪と云う。東京新宿に古書店を営むこの仏頂面は、新宿の大通りの有象無象とは真反対の、まるで昨日今日で親兄弟親友が全て殺されたかのような風体をしている。臈纈染の着流しに煙管、肩まで伸びた髪を一本に束ね、縁のないメガネをかけた岩崎は、かつかつと忙しなく歩くサラリィマンの川を悠々と泳ぐように、ひょいひょいと下駄を鳴らしていた。 古本市の商談の帰り道、不意に岩崎はクンクンと鼻を鳴らす。 「…雨か」 ひとりごち、そっと羽織を頭に掲げた瞬間、雲が濃くなり、雨が降り出した。あっという間に辺り一面を覆い、騒いでいた人々は散り散りに逃げ出す。その中でも一人悠々と雪駄を鳴らし、歩いて行く。 カラン、コロン。 雨で周りの音が遮断され、静謐な空間が辺りを支配した。 カラン、コロン。 岩崎は耳を澄まし、音を楽しむ。 ふと、そこに雑音が混じっているのに気づいた。 「おや」 路地裏に倒れている人影が。近くに寄って確かめてみると若い女だ。紅色の袴にブーツのハイカラな出で立ち。顔も腕も傷だらけで、気を失っている。 岩崎はしょうがない、と云った風に煙管を消し、彼女を抱え上げた。
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