29人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
髪を切った。それはもうばっさりと。手鏡の中から見つめ返すショートボブの女。グレージュカラーに染めたワンカールパーマは狙い通りの上品なラインを描く。ふわふわ耳元で揺れる髪の束を引っ張って、志織は満足げに微笑んだ。
「志織ちゃん!」
混雑した駅前の広場。人混みの向こうから一際大きな声がして、志織は背伸びを必死に目を凝らした。
「ケンくん、こっちこっち」
右手を高く上げて振る。くしゃりと嬉しそうに綻ぶ男らしい顔立ちにこちらまで笑顔になってしまう。今日は付き合って初めてのデートだった。目の前に立つ彼は、弾んだ息を整えようと懸命に胸を押さえている。いつもの制服姿とは違う、ダークグレーのシャツが新鮮だった。
「待たせてごめんね」
「ううん。私が待ってたかっただけだから」
「ありがとう。……髪、切ったんだね。すごく、似合う」
彼はじっと志織を見つめた。好きで好きで堪らない、そんな顔をしている。溢れんばかりの好意がだだ漏れの目線を注がれた志織は嬉しくなって、シャツの裾をちょんちょんと引っ張った。
「ねえねえ、」
少しばかり首を傾げて、得意の上目遣いで。絡め取った彼の瞳の奥、見慣れた色が渦巻くのをそっと観察しながら、志織は睫毛をしばたかせた。
「しおり、って、呼んで?」
―――――
――――――――――
はじまりはいつだって順調だ。志織は自分に向けられる視線に敏感だった。その目が持つ感情が好意であれば尚のこと。隠しきれない色を秘めた瞳に向かって笑いかける瞬間が大好きだった。
しかし同時に、志織はひどく飽きっぽい性格でもあった。愛おしげに見つめてくる相手を一度手に入れてしまうと、それまで胸の内を満たしていたはずの昂揚はあっという間に冷めていく。そして、また別の視線が気になり始めてしまうのだった。
そんな訳で、志織の恋は長続きした試しがない。別に不満はなかった。毎日楽しいし、今まで好きになった人は皆、冷めてしまったとはいえ大切な思い出であることに変わりはなく、時々宝箱を開けるように思い返す。あの人はあんな風に笑ったな、だとか。あの人はやわらかい手をしていたな、だとか。
褒められたことではないなんて分かっている。志織のことを良く思っていない人間が多くいることも、勿論、知っている。それでも、不思議と罪悪感を覚えることはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!