節操なしの純情

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「ああ……今、お袋飯行ってるんだよ。わざわざありがとな」  兄が怪我をした日のことを今でもよく覚えている。デートをぶった切って病院に駆けつけた志織は呆然とした。兄は別人のようになっていた。志織を見て大丈夫だと笑った顔。口元は確かに弧を描いているのに、その目の奥はひどく虚ろだった。 「お兄ちゃん……」 「そんな顔するなって」  言葉を失った志織に、兄は困ったような顔のまま微笑んだ。 「でも――」  結局、志織は口をつぐんだ。病室を出た後、母から聞かされたのは残酷な現実だった。練習試合に出場した兄が負ったのは前十字靱帯断裂という怪我だった。高校で全国大会まで進むこと、それが兄の夢だったと聞く。痛みを堪えて膝を壊し続けながら一年間練習に参加するか、手術を受けて一年間走ることなく治療に専念するか。兄が選んだのは、後者だった。 「本当にいいの?」  珍しく病室で二人きりになったタイミングで、志織は尋ねた。兄がどれほどサッカーのために身を削ってきたかよく知っている。兄がどれほど諦めの悪い、真っ直ぐな性格であるかも、よく知っている。三年生として全国大会を目指す最後の機会にサッカーを辞めてしまう、あまつさえ中途半端な時期に退部するなど、本人が望んだ選択だとは到底思えなかった。 「うん。受験もあるし」  肩をすくめる横顔は、穏やかだった。 「もう、サッカーしないの? あんなにいっぱい頑張ってきたのに?」 「さあ……でも、二度と歩けなくなるほうが嫌だから」  静かに告げられた言葉の後、兄はしばし黙り込んだ。まじまじと見つめる志織に向かって、伊織はそっと笑った。志織も無理矢理笑った。  高校のサッカー部員をはじめ、先生やコーチ、中学時代の同級生、地元のサッカーチームの頃の友人。次々に訪れる見舞客は、口を揃えて残念だ、と言った。あんな優秀な選手が、と。その度に志織は腹を立てた。兄のことなんて何も知らないくせに。兄の気持ちなんて何にも分からないくせに。自分にだって兄の本心は分からないこともと棚に上げて、一丁前に腹を立てた。
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