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4
釣り糸を垂れても、一向に魚は食いつかなかった。
品川沖で、夜明けとともに一刻(二時間)は粘ってみたものの、ほとほと運が悪いのか、日高竜之介の竿にまったく当たりが来ない。
「この場所がよくないのか?」
小田志津馬が、海ではなく空を見上げて、ポツリとつぶやく。
寝そべってばかりで、釣りをしたのは小舟を出した直後だけ。あとは竜之介に任せっきりで、そのくせ、
「下手くそだな」
本気とも冗談ともつかぬ物言いで、むっくりと起き上がった。
艪をつかむと、さらに沖へと小舟をこいだ。わずかひとこぎで、スーと静かに滑っていく。海は穏やかで、海面を跳ね返す七色の光に、思わず目を細めた。
「極楽浄土とは、このことだな」
家出の翌日。
志津馬にすれば、父や学問から解放され、体に乗っていた重しがなくなった気分である。
蒼海へこぎ出す風が心地よくて、ついつい、艪を持つ手に力が入る。
「そういえば、四日前に舟をお貸ししたお武家様が、未だに帰って来ないんですよ。どこまで流されたものやら・・」
船宿の亭主が語った遠回しな忠告を竜之介は思い出し、鼻唄を唄いながら軽快に操る志津馬の艪を、慌ててつかんだ。
五度目に変えた場所で、再び竿を操る。
船首に座る志津馬が、退屈そうに欠伸をした。それが竜之介にもうつりそうになり、思わず下を向いて、口を手で押さえた。
ぷかりぷかりと揺れる釣舟から、水平線をぼんやりと眺める。
空と海の青が溶け合っていた。
綿雲が少しずつ形を変えながら、風の吹くまま泳いでいく。そんな雲を追いかけるように、海鳥が大空を舞う。
竜之介が点になるまで見守っていると、
「どこまでも、好きなところへ行ける身分はよいのぉ」
志津馬がつぶやく。
「強引に、そうなったではございませぬか」
「まぁ、そうだな」
家出をすればもう、小田家の人間ではない。
志津馬は、潮風を胸いっぱいに吸い込み、
「よしっ・・!」
こぶしを握って、気合を入れ直す。
屋敷では見たことのない活きた表情で、再び釣り糸の動きに集中する。
しかし、睡魔には勝てなかった。気持ちとは裏腹に、どんどん瞼が重くなる。
左近がいる福乃屋を出てきたのは、真夜中。
寝不足のせいか、小舟の揺れが眠気を誘う。陽が昇るにつれ、あったまった空気が蒲団のように全身を包むと、釣竿を持ったままうとうとし始めた。
すると、あっという間にスースーと寝息を立て、口から涎を垂らす。
大海原にいる解放感で気が緩み、口元まで緩む。ついでに、釣竿を握った手も緩み、竹の棒がスルスルと、手のひらから逃げていく。
海に呑み込まれる寸前の竿を、竜之介は中腰の状態で手を伸ばし、ギリギリでつかんだ。
ホッとしたのもつかの間、爆睡していたはずの志津馬が、ニッと白い歯を見せるや、竜之介の脇腹をトンと押す。
「あ・・」
不安定な舟上で体は傾き、両足の踏ん張りと、必死に回した両腕の努力もむなしく、竜之介は水しぶきを上げ、背中から落ちた。すぐに舟へ戻ることができたのは、浅瀬のおかげである。
危うく、四日前から行方不明の侍と、同じ運命をたどるところだった。
志津馬は大口を開け、目尻に涙をためて笑う。濡れた竜之介が咳き込んでいると、さもおかしそうにクックックッと声をもらし、腹を抱える。
五月の海は、思った以上にひんやりする。さらにくしゃみが連続で出た。
武芸で鍛えた強靭な肉体も、水の冷たさには敵わない。
無駄肉が一切付いていないせいか、寒さが骨までしみた。唇が、みるみる青紫に変わっていく。体にべったり貼りついた小袖が、竜之介の体温を奪っていった。
諸肌を脱いで、鼠色の小袖を絞る。
左の上腕には、登り竜の彫物があった。武家の刺青は厳禁なのだが、志津馬はすでに知っているから、別に驚きもしない。
「ほれ、食えばあったまる」
竹の皮に包んだ握り飯を、竜之介の鼻先に持っていく。
「それは、志津馬様の・・」
「よいのだ。そうそう食は戻らぬゆえ」
半分に割ると、中の具は志津馬の大好物、蜆の時雨煮で、ゴボウの煮物まで添えてあった。福乃屋のお福がこしらえ、出がけに渡してくれた弁当だ。
「外へ出ると、具合がよくなるようだ」
鼻の穴を膨らませ、潮風を胸いっぱいに吸い込む。顔色がほんのり桜色になっていて、竜之介もひと安心した。
振り返ってみれば、家出をしてから、咳が一度も出ていない。やはり、座敷牢に入っていたことが原因に違いない。
三年前から、そこで寝起きをしていた。
高盛の逆鱗に触れることが、三つあったからだ。
息苦しい生活ゆえ、とにかく遠くへ行きたくてしょうがない。隙あらば、日帰りもできぬ場所へ、一人でふらりと出かけてしまう。
十九歳のとき、東海道を通って、江ノ島の弁天参りや、鎌倉見物まで行った。
これがばれて、初めて座敷牢へ入ることになったのである。
そして翌年、幽閉が解けるやいなや、
「浅間山が見たいな」
天明三年(1783年)に噴火した浅間山を見るため、今度は中山道を歩き、桶川まで行った。道草ばかりで三日もかかり、当然ばれて、再び土蔵暮らしに逆戻り。
大名や旗本は、自分の屋敷以外で泊まることは許されない。常に臨戦態勢を整えておく必要があるため、家を空けてはいけないのである。
例外は、台風などの自然災害に遭ったときだけで、このことを十分に知っていながら、志津馬はまったく気にかけるでもない。
竜之介と弥平の説得で、それから遠出は渋々やめたものの、一年前に、またしてもしでかした。
今度は、大道芸の居合抜きである。
小田家の菩提寺である普賢寺へ行く途中、両国広小路で、うまくもない居合抜きに、
「見ておれぬ」
素通りすればよいものを、竜之介の制止を振り切り、観衆の面前で、ひらひらと舞う扇子を三枚、瞬時に斬ってみせた。
居合術は武芸十八般の一つで、唯一、志津馬が得意とする。
紅顔の若侍が見せた鮮やかな抜刀術に、歯磨きは男女問わず売れに売れた。これを売らんがために、大道芸人は居合抜きをしている。
しかし、これがいけなかった。
運の悪いことに、たまたま花村家の女中が、目撃していたのである。
小田家の三男坊は、両家の境にある塀を飛び越え、左近を訪ねてくる変わり者だったから、顔は十分に知っていた。惚れ惚れする居合を見ては、もう口が黙っていない。
高盛の耳へ入るのに、さして時間はかからず、二度目の延長が決まって、計三年。
おかげで、色白のもやしになっていた。
体調が悪いのは、座敷牢に入ってからである。
「弥平は、大事ないだろうか?」
志津馬がつぶやく。
高盛の木刀で背中を打たれたあと、竜之介が中間部屋まで運び、介抱している。当主はさほど力を入れていなかったが、打ったところは赤いあざができていた。
「弥平に、活きのいい鱚を食べさせてあげたい。なぁ、竜之介」
志津馬は、もう一度釣り糸を垂れた。
竜之介も、残りの握り飯を口へ放り込むと、湿った小袖に袖を通し、再び釣竿を持った。
それからどのくらい経っただろうか。
降り注ぐ日差しに肌をあぶるばかりで、肝心の竿は一度もしなることがない。時ばかりが早馬のように過ぎていく。
竜之介は釣竿を上下に動かし、引きを待つ。
すると、気持ちが天に通じたのか、突然、竿が大きくしなった。腕に力を込め、体を前後に揺らしながら竿をあやつる。
「貸すのだっ・・!」
志津馬が強引に釣竿を奪うと、せっかく舟まで引き寄せた大物が、遠ざかっていく。
歯を食いしばって格闘し、カサゴを釣り上げたまではよかったものの、びっしょりと汗をかいた割には納得のいかぬ大きさで、わずか五寸しかなかった。
欲を出し、再び釣糸を垂れる。
竜之介がふと空を見上げると、いつの間にやら、鉛色の雲が西の空を覆っていた。空の明暗が、手前と奥でくっきり分かれている。波がざわめき始めていた。
「志津馬様、もうこのあたりで・・」
「あっ、これはいかんな」
雨が降り出しそうな気配だった。舟首を浜へ向け、もう一度空を確認すると、急いで艪を操った。舟を陸へ上げると、大股で引き返す。
ゴロゴロと、雷の音が遠くで聞こえてきたのは、芝の増上寺を過ぎたあたりだった。
京橋、日本橋と渡り切ったところで、バキバキと空が鳴った。迫ってきた雷雲から閃光が走り、雷がドスンと地を揺らす。
「まいったなぁ・・」
ポツポツと、雨が地面を濡らし始めた。小道具屋の軒下に、二人は一旦避難する。
煤で汚れたような雲が、べったりと空に貼りついていた。昼とは思えぬ暗さである。
「もう少しにございます」
竜之介の言葉に志津馬がうなずくと、左の袂で刀の柄を覆い隠し、軒下から飛び出していった。竜之介がそのあとを追う。
ところが、十歩と進まぬうちに大降りとなり、二人の体を大いに濡らしていく。
福乃屋へ飛び込んだときにはもう、肩から胸にかけて小袖が濡れ、袴の裾は見事に泥が跳ねていた。竜之介の小袖も、鼠色がどぶ鼠色に変わっていた。
「ああ、よかったぁ」
乱れた毛先から、雫がしたたり落ちる志津馬を見て、なぜかお福が胸を撫で下ろす。
「何がいいものか。この通りずぶ濡れだ」
「お前、そういう言い方は、わからねぇだろう?」
奥の板場から、福乃屋の店主・喜助が顔を出し、女房に注意する。
食べればその分、脂肪を蓄えるお福の体質に対し、食べても食べても太らぬ体である。
腕のいい菓子職人は、日々、名物作りのために、お福から尻を叩かれっぱなしだった。それが重荷なのか、最近は病かと心配するほど、まぶたと頬がへこんできた。
お福とは対照的にやせていく。
「だってもう、落ち着かないったらありゃしない」
前垂れを握りしめる。
「カサゴを釣ったのだ。ちと小さいが・・」
竜之介の腰にぶら下がっている魚籠を取ろうとする。
「そんなことより、急いでお帰りなせぇまし。左近さんからの伝言でさぁ」
喜助が、準備しておいた編笠を差し出した。
「詳しいことはわかんないんだけどさぁ、弥平さんが大変なことになったとか・・」
お福が付け加える。
「弥平が・・?」
「左近さんの知り合いだって人がいきなり来てさぁ。そのあと、血相変えて出てったんだよぉ。早く早く・・」
お福が二人の背中を押す。
もしや、高盛に打たれた体が、思いの外、よくなかったのではなかろうか。医者に診てもらうことを、かたくなに拒否していた弥平である。
雨は容赦なく降りしきる。
どんよりした空を見上げると、ふと竜之介の胸に暗い影が差す。
二人は大急ぎで走った。武士はむやみに走ってはいけないが、そんなことを気にしている場合ではない。
裏口から屋敷へ入ると、土蔵の前に左近が待っていた。
「弥平は・・?」
志津馬は両手を膝に置き、前かがみで上半身を支えた。すっかり息が切れている。
座敷牢生活で、体力が衰えていた。その場に崩れそうなほど、疲労が激しい。品川から歩き詰めだったこともある。全身はびしょ濡れで、服は大量の汗も吸っている。
左近もしとどに濡れていた。
髪や服が汚れることを嫌うくせに、今は雨に打たれたまま。小袖は明るい色の派手な柄が定番なのに、地味な藍色の縞縮緬とは珍しい。
(泣いている?)
頬を伝う一粒の雫は、雨なのか涙なのか、竜之介にはよくわからなかった。そんなもの悲しい表情は、一度も見たことがない。
「どうしたのだ?」
荒い呼吸のまま、志津馬が聞く。
「弥平が・・、殺された」
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