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5
土蔵の中は荒らされていた。小田志津馬の座敷牢である。
二千坪の敷地の中で、表門から一番遠い場所、左近の屋敷側にひっそりと建っていた。竹藪に囲まれているため、家の者すら存在を忘れるほどである。
中は六畳ほどの広さで、二階もある。とはいっても、梯子をかけたその先に、二畳にも満たない空間があるだけで、背を伸ばすこともできない。
その狭い場所で、志津馬は寝起きしていた。
下にも二畳分だけ、畳が敷いてある。壁際に文机があり、その上にはホコリしかなかった。
土間の部分には、長櫃や行李が置いてあり、志津馬の衣服や手回り道具などが入っている。
それ以外に目ぼしいものはない。
幽閉当初、暴れ回って木箱をひっくり返したため、高価なものはすべて、別の土蔵へ移してあった。蔵といっても、お宝らしき物は何一つない。
それなのに、物色した跡がある。野分が去ったあとのような散らかりようだった。
長櫃や行李のふたが開いている。凧や独楽、天狗の面に熊の置物まで散乱していた。
志津馬のために、弥平が自分の給金から買ったものである。
ふたの裏側に、血しぶきが飛んでいた。物色したあとに、弥平は殺されたのだろう。畳や土間にも、血糊が付いていた。
まるで昨年大当たりした、四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の舞台である。
二人の息が止まった。
畳の上に、弥平が横たわっている。菰がかかっていた。
「強盗に殺られたようだ」
二人の背後で、左近が重そうに口を開いた。わずか一日で、天と地がひっくり返ったような状況。
(悪い夢を見ておるのではないか・・)
血生臭いにおいをかぎつつも、竜之介は現実を受け入れることができない。
九歳のとき、父を亡くした記憶がよみがえった。あのときも、血の臭いがまとわりついていた。
弥平は顔も性格も、実の父親とまったく違うものの、存在はもはや父と同じ。
それに、命の恩人でもある。
喪失感は、父親を失ったとき以上だった。
父は死の病にかかっていたから、幼いながらも覚悟はできていた。
しかし、弥平の場合は突然で、しかも殺害という衝撃的な最期である。
志津馬は頭の中が真っ白になっているのか、戸口に突っ立ったまま。微動だにしない菰の膨らみを眺めていた。
お互い、聞きたいことは山ほどあるのに、何から聞いていいのかわからない。
激しく屋根瓦を打つ雨音だけが、室内に響いた。
「伝兵衛が見つけたのだ」
今の段階でわかっていることを、左近は順序立てて話し出した。
背中を打たれ、中間部屋で寝ていたはずの弥平が、いつの間にかいなくなっていた。医者へ行き、そのままそこで、大事をとるため、夜を過ごしたのだと、みな思っていた。
ところが、朝餉の準備をする時間になっても戻ってこない。
「医者へ行くと、言っておったのか?」
用人の菅谷伝兵衛から聞かれた若党が、
「いえ、そこまでは聞いておりませぬが・・」
ケガをした体で、出かけることはできまいと思った伝兵衛は、屋敷の中をくまなく探し、最後に、唯一自分が鍵を持つ土蔵へ行った。
「弥平・・?」
声をかけつつ、扉を開けてみた。のぞき込むように顔を近づける。
すると、室内のもあっとしたぬるい空気が押し出され、鼻腔にぷうんと血の臭いがさした。
今は畳の上に寝ている弥平だが、伝兵衛が発見したときは、土間でうつ伏せに倒れていた。畳から土間にかけてのわずかな距離を、弥平は最後の力をふり絞り動いたようである。
その証拠に、畳から倒れた場所まで、血の跡が付いていた。
胸を斬られながらも、助けを求めた先が、扉のある出入口ではなく、奥に向かっているのが妙だったと、伝兵衛は左近に語った。
間違いなく、弥平は抜け穴に行こうとしていた。三人ならすぐにわかる。
鍵は伝兵衛が管理しているため、勝手に開けることはできない。学問や武芸の練習のときは、外に出してもらえるものの、それ以外は、高盛の許可がいる。
日に日に、具合が悪くなる志津馬を心配して、幽閉からしばらくして、竜之介は弥平と一緒に、抜け穴を八日もかけて掘ったのである。
合い鍵をこしらえたくても、伝兵衛は懐に入れたまま、離したことがないのである。
伝兵衛は、躊躇なく、殿様の住む御殿へ急いだ。
事情を聴いた当主とともに、すぐさま土蔵へ引き返したのは言うまでもない。
現場の惨状を目にした高盛は、さすがに一瞬ハッとしたものの、すぐさまいつもの不機嫌な顔つきに戻り、弥平の横にかがんだ。鼻孔に手のひらを当て、呼吸の有無を確かめる。手足の指を触り、関節の弾力もみた。
手遅れなのは明らかだった。
一中間に、当主自ら死亡を確認したのは、弥平が長年、手に余る息子の面倒を見てきたからである。
親に反発はしても、家名を汚さぬギリギリのところで踏みとどまっていたのは、弥平の存在があってこそ。
高盛はしばし目を閉じたあと、ゆっくりと立ち上がり、
「心の臓の発作で倒れた。よいな」
静かに言ったそうな。あとの処理は、病死で行えという指示である。
「それから、左近をこれへ」
事情を聞くため呼びつけた。
「弥平が亡くなった」
福乃屋で知らせを受けた左近が、蔵へやって来たのは、それから四半刻後である。
中に入った瞬間、声を失い、目を疑った。
すでに弥平は、菰が掛けられていた。その菰をめくらずとも、何が起きたのか、血しぶきの飛んだ内部で察しはつく。
足の力が抜け、体が揺らめいた。
志津馬同様、実の父にはできぬわがままや悩み事を、弥平は聞いてくれた。奉公人の域を超える存在なのは同じで、散々弥平に甘えてきた。
左近は妾腹の子であるがゆえに、父親にも、正妻とその子にも遠慮があった。遠い昔、実母を亡くしたとき、目を真っ赤にして泣いたのは、弥平の胸である。
「合い鍵を持っておるのか?」
高盛が聞いてきたという。
「いえ」
「志津馬も竜之介も、持っておらんのだな?」
「はい」
その答えに、高盛がんん~とうなる。持っていなければ、なくすこともない。拾った誰かが、侵入したという線は消えた。
とはいっても、どうやって入り、出て行ったのか。
蛇のような高盛のにらみに耐えきれず、左近は、鍵ではなく、抜け穴の存在を答えざるをえなかった。
当主は地声が大きく、たたずまいだけで十分に威厳がある。五千五百石としての貫禄と風格がにじみ出ている。
子供の頃から、まともに目を見ることのできない人物だった。
「なるほど、そんなものをこしらえていたとは・・」
志津馬を救うための抜け穴が、弥平を死に導いたことになる。
「お前のところにいるのだろ?」
高盛は、それだけ言った。息子に知らせろという意味なのだ。
左近が居候している福乃屋に、志津馬がいると思っている。
そこまで話を聞き、竜之介は目を閉じた。赤黒い血の跡を見てもなお、
(何かの間違いではないか)
悪夢と信じたかった。
必死にこらえていた気持ちが折れたのか、志津馬がガクッと膝をつく。
弥平がいなかったら、今頃、本当のかぶき者になっていたかもしれぬ。
盛り場を闊歩して、気に入らない者どもを、片っ端から乱暴していた可能性もある。鬱憤の向け方が、悪い方へいかなかったのは、弥平のあったかい情のおかげである。
なんせ、自分のわずかな給金から、よく眠れると評判の高価な薬『高枕無憂散』を買い、咳病に効くとうわさの、向島弘福寺境内の爺婆石像に、甘酒を持って平癒祈願までしていた。
竜之介が知る限り、弥平は自分のことに、一切お金を使っていない。何より、志津馬を優先する。
善人が、まるで天罰を受けたような死に方とは、神も仏もあったものではない。
「一体、誰が・・」
竜之介は土蔵の奥へ視線を移した。
右の隅に、ひと一人がようやく通れる穴が掘ってある。普段はその上に、竹を並べて作った頑丈なふたをし、その存在を隠すため、乗馬の稽古に使っていた木馬を置いている。
今はポッカリと黒い口が開いていた。井戸よりひと回り小さいくらいの大きさである。
「ふたは・・? ふたはどうなっていたのでございますか?」
竜之介が、左近に聞いた。
「閉めてあった。自分が開けたのだ。それまで殿様と伝兵衛は、抜け穴の存在など知らなかった。木馬は動かしておらぬ。この通り、穴の横に置かれたままだった。ふたの開け閉めだけなら、外からの出入りは簡単だろう」
蔵に鍵が掛かっていたということは、弥平を殺した犯人は、抜け穴を使ったことになる。そして出て行くとき、しっかりふたをしていった。
少しでも、現場を隠そうとするあざとい行為である。
竜之介は、腹の底から吐き出したい雄叫びを、必死にこらえた。
「弥平・・」
志津馬が恐る恐る菰をめくると、いつもの面差しが現れた。
肉付きのない薄い頬。肌は、干した大根のように弾力を失っていた。やや口角の下がった口元は、死してもなお、志津馬を心配しているように見える。
冬場に石を触ったような、硬くて冷たい躰を、志津馬がさすり始めた。
敷地の外れにある土蔵の中ともなれば、助けを呼んでも誰もわかるまい。
雨音は次第に弱まっていた。
こうなったら、何が何でも犯人を突き止め、
「八つ裂きにしてやる!」
手のひらに爪が食い込むほど、志津馬はこぶしを握りしめた。
すると、
「その必要はない」
乾いた声が背後から返ってきた。高盛が戸口に立っている。
口はへの字に曲がっていたが、息子が帰ってくるまで、一刻半(三時間)以上も経っていたせいか、さすがに短気な高盛も、怒鳴ることはなかった。
左近と竜之介に目配せして、二人を蔵から出す。ひと呼吸置くと、
「おとなしくしておれば、このようなことには・・」
チラリと、動かぬ弥平を見る。
「これを機に、心を入れ替えるのだな。約束すれば、戻ってきてもよい。それで弥平も浮かばれる」
「・・」
「たいした物は、盗られておらぬであろう? 元からなかったことと思えば、腹の虫も治まる」
「治まりませぬ」
下を向いていた志津馬が、小声でつぶやいた。
「なんと・・?」
「治まりませぬ。仇は必ず・・」
「奉公人ではないか」
「いいえ、奉公人ではありませぬ!」
顔を上げ、強い口調で噛みついた。
「そうであった。三男の父親は、弥平であった」
「父上・・」
「仇を討つことより、おとなしく養子に行け。一万二千石の話がきておる」
こんなときに養子の話を持ち出すとは、何と無神経な。志津馬は下唇を噛んだ。
「弥平はちょうど、役目を終えたのだ」
温かい血が流れているとは思えぬ発言のあと、
「奉行所に、下手人の吟味を願い出ることはならぬ。弥平は病気で死んだ。余計なことをするでないぞ。この屋敷に強盗が入り、使用人が殺されたなど、世間に対して示しがつかぬからな。よいな」
一方的に話を済ませて蔵を出る。入口に控えていた左近と竜之介に、
「口外するでないぞ」
横目でにらみ、釘をさした。返事をしたのは、竜之介だけである。
志津馬は強く握りしめたこぶしを、力の限り壁にぶつけた。怒りの破壊力は想像以上で、土壁にひびが走る。もう一度、こぶしを振り上げたとき、
「やめろ・・!」
左近が志津馬の腕をつかんだ。手の甲は、血がにじんでいた。
「おケガをすると、仇は討てませぬ」
当主に返事はしても、従うつもりはない竜之介であった。
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