月兎忌憚

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「佐紀!すぐに涼をお風呂場に連れて行って。  頭から水でもかけてやれば、少しは目も覚めるでしょ」 そう言って、意地悪く笑う。 そんな伯母の言葉を無視するように、涼は横たわる母の傍らに腰を下ろした。 顔に掛けられていた布をそっとはずす。 母の白い顔は、まるで眠っているように穏やかだった。 涼は袋から草履を取り出すと、枕元に揃えて置いた。 「何してるのよ」 今にも噛み付きそうな勢いの松恵を制するように、低い声が響いた。 「姉さん」 涼は視線だけを上げ、声の主を見た。 父の司だ。 普段は鋭く光らせている目も、今日は充血して潤み、妻の死を前に大きな体が一回り縮んだように見える。 「今日でお別れだ。涼の好きにさせてやってくれ」 有無を言わせぬような気迫と、周りの人達の同調するような雰囲気に松恵は口元を歪めた。 「そうやって甘やかすから、手がつけられなくなるのよ」 松恵はそう毒づくと、不機嫌な顔で母屋を出て行った。 涼は、視線を母の顔に戻すと、ほっそりとした頬にそっと触れた。 その肌の冷たさが、指先を伝ってゆっくりと涼の心に染み込んでくる。 それは認めざるを得ない、母の死。 「母さん…ごめんね」 不思議と涙は出なかった。 楽しかった思い出だけが蘇ってくる。 母の頬から手を離すと、縁側へ出た。 幾重にも重なった黒い雲が晴れ、白い月が顔を覗かせる。 まるで母の微笑みのような淡く儚い光が、縁側に立つ涼の裸足の足を優しく照らした。 不意に吹いた風が愛おしむように、前髪をさらさら揺らす。 月を見上げる涼の双眼には、温かい光が煌いていた。 唇がゆっくりと動く――― 「ありがとう…さようなら…」           完
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