45人が本棚に入れています
本棚に追加
「佐紀!すぐに涼をお風呂場に連れて行って。
頭から水でもかけてやれば、少しは目も覚めるでしょ」
そう言って、意地悪く笑う。
そんな伯母の言葉を無視するように、涼は横たわる母の傍らに腰を下ろした。
顔に掛けられていた布をそっとはずす。
母の白い顔は、まるで眠っているように穏やかだった。
涼は袋から草履を取り出すと、枕元に揃えて置いた。
「何してるのよ」
今にも噛み付きそうな勢いの松恵を制するように、低い声が響いた。
「姉さん」
涼は視線だけを上げ、声の主を見た。
父の司だ。
普段は鋭く光らせている目も、今日は充血して潤み、妻の死を前に大きな体が一回り縮んだように見える。
「今日でお別れだ。涼の好きにさせてやってくれ」
有無を言わせぬような気迫と、周りの人達の同調するような雰囲気に松恵は口元を歪めた。
「そうやって甘やかすから、手がつけられなくなるのよ」
松恵はそう毒づくと、不機嫌な顔で母屋を出て行った。
涼は、視線を母の顔に戻すと、ほっそりとした頬にそっと触れた。
その肌の冷たさが、指先を伝ってゆっくりと涼の心に染み込んでくる。
それは認めざるを得ない、母の死。
「母さん…ごめんね」
不思議と涙は出なかった。
楽しかった思い出だけが蘇ってくる。
母の頬から手を離すと、縁側へ出た。
幾重にも重なった黒い雲が晴れ、白い月が顔を覗かせる。
まるで母の微笑みのような淡く儚い光が、縁側に立つ涼の裸足の足を優しく照らした。
不意に吹いた風が愛おしむように、前髪をさらさら揺らす。
月を見上げる涼の双眼には、温かい光が煌いていた。
唇がゆっくりと動く―――
「ありがとう…さようなら…」
完
最初のコメントを投稿しよう!