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病院という環境に慣れない響野にとっても、運転手、係員、看護師の、その一連の挙動は、いたく手際の良いものに感じられた。歩くのにも苦労している今の自分とは大違いだ。
ブラインド・タッチなら自信あるんだけどな……。
そんなことを思いつつ、響野は何も映さない自分の視界と向き合いながら、まるまる午前中をかけて病院の検査と診察を受けた。
病院ですごした時間は長く退屈なものだったが、少なくとも安全で、平穏だった。
だが一歩外に出ればそうもいかない。街の中には車もいれば、人もいる。障害物もいたるところにあるだろう。横断歩道、電信柱、道路わきのちょっとした段差など、いつもの通勤途上で目にする街の風景を思い出すだけでも、初心者には一筋縄ではいかない道のりであることが予測できる。処方箋をもらい、会計をすませた響野は、ここからが本番だと自らに言い聞かせた。
とりあえず、無傷で家にたどり着くためには、もう一度タクシーを呼んだほうが良さそうだ。薬局には途中で寄ってもらえばいいだろう。会社にも事情を説明しておかなければ。
会計エリアに併設された休憩所のベンチで勤務先への電話をかけ終えたときだった。
ふいに前のほうから「すみません」と声がした。間を置かず、右肘のあたりに誰かの手がふれる。声をかけた相手が響野であることをはっきりと示すためだと思われた。
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