11人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
残業終わり、会社からの最寄り駅、だが人目を避け敢えて最寄りではない入り口で合流した隼人が、ぽつりと言った。
「海が見たい」
しかし慢性的に人手不足の総務課にあって、当分ふたりに休みはなかった。隼人も、それを承知した上で言ったのだ。深い意味はない。だが、栄二朗は隼人の願いなら何でもきいてやる男だった。
「よし、今から行くか!」
「え?」
微かにしまった、と思った。海は見たいが、今でなくても良い。そんな台詞が喉から出かかったが、栄二朗はもう地下鉄のコンコースで、近くの浜辺への切符を2枚、買っている所だった。
いつもとは逆の路線、久しぶりのデートを、栄二朗も喜んでいるようだった。素直に顔には出ないが、いつもより幾分か饒舌だ。栄二朗も喜んでいるのなら、と隼人は彼に従った。
* * *
──ザザ……ン……。
今まさに、太陽が水平線に燃え落ちようとする所だった。わずかに空にたなびく雲に、鮮やかなオレンジ色が色彩を移し、まるで天上の国の景色のようだった。それを見て嬉しそうに笑う隼人の白い頬も、オレンジに染まり、やがて一瞬のきらめきを魅せて、陽が沈んだ。
「綺麗だな……」
「……そうだな」
終始その笑顔を盗み見ていた栄二朗が、お前の方が綺麗だ、なんて言いそうになり、僅かに遅れて相槌を打つ。恋愛なんてただの子どものお遊びだと思っていた自分がそんな台詞を吐きそうになるなんて、と栄二朗はやや目を伏せて自嘲した。
陽が沈んだばかりでまだ空は夕闇に青白く輝いていたが、やがて幾つかの海の家が明かりを消してしまえば、真っ暗になってしまうだろう。その前に、と栄二朗は隼人の手を引いた。
「わっ。ど、何処行くんだ、栄二朗」
「見るだけじゃ、来た甲斐がないだろ」
言うと、波打ち際まで隼人を強引に引っ張っていく。
「ちょっ……と、栄二朗……! 濡れちゃうよ」
「明日の代えの靴ならあるだろ。せっかく来たのに、このまま帰るのはもったいねぇ」
「え? あっ! ……ああー……」
栄二朗の強引さに敵わない事を知っていたから、さほど抵抗もしなかったが、波が二人の足首まで覆い、ヒヤリと冷たい海水が靴の中を満たした時には、思わずため息が漏れた。足の裏の砂が引き波に削られ、僅かに沈むような感覚を覚える。
最初のコメントを投稿しよう!