(1)降り続く

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 漕ぐことをあきらめた初老の男を残し、俺たちは進路を変えた。言葉は不安をかきたてる。二人とも無言で作業を続けた。とにかく先は長い。 「ありゃ、歯をくいしばり過ぎたかな、抜けちまった。」  交代の時、佐藤は抜けた歯を見せて笑った。見ると髪も何か所か抜け落ちていた。  漕ぐ、水を汲み出す。その単純な作業を二人はどれだけくりかえしたことだろう。突然、佐藤が素っ頓狂な声を上げた。 「ありゃなんだ」  目の前に巨大な黒い影が見えた。それはみるみる近づいてくる。だが船にしては形がいびつに思えた。まるで巨大な箱のようだ。  その時、雨が小降りになり、箱の上に影が見えた。敦は目を凝らす。 「恵子!」  見慣れた黒髪。間違うはずはない。一週間前、彼は愛情をこめてその髪を愛撫した。 「俺の愛した女」  恵子は澄んだ瞳で遠くを見ていた。 「そうか選ばれたのか」安堵が心の中でひろがり、敦は小さく手を振った。 「よかった」涙があふれた。だが、恵子は、こちらに気づいてはいない。  やがて箱舟は何事もなかったかのように通り過ぎていった。 「おい、休むな、富士山だぞ」  背中で佐藤の叱る声が聞こえた。  (終)
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