<一>

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 息がつまる。  そう感じながら毎日を送る私の人生は空っぽだった。何処にいても誰といても自分の存在は幻で空虚な夢を見続けているような不確かさ。家に飲み込まれ、家に喰われる為に生まれて来たのではないか。そんな思いだけが募る25年。  日本が負けるなど考えることさえ罪になるご時世が、皮肉にも私に少しだけ息ができる環境をもたらした。東京の空襲が始まり疎開してきたこの南の地は俗世から切り離されたような安心感がある。  持病を抱えた父は東京を離れられず母も残った。私も残ると主張したが認められなかった。家を守り血を繋げるために。  父の知り合いを頼り、屋敷の離れに間借りし一人で生活するのは心地よかった。此処は東京と違い年中作物が採れ、まだ食べる物があった――それが芋や南瓜であったとしても。  7月のとある夜、眠れず散歩に出た私は見慣れない光景を目にした。小さな川の縁に立った男がまっすぐ前を見詰めている。月夜に照らされた頬には幾筋の涙の跡。身に着けているのは軍服だった。  そういえば近くに軍の指定食堂があったとぼんやり思い出した。その店の帰りだろうか。そのまま通り過ぎたほうが親切だとわかっていたが、放っておけない何かが男にはあった。 「大丈夫ですか?」  ゆっくりこちらを向いた男は手の甲で顔を拭ったあと小さく返事をした。 「大丈夫です」 「そうですか」  次に続ける言葉を互いに見つけられず気詰まりな時間が流れた。男は握っていた制帽を被り、表情を引き締めたあと「ご心配をおかけしたようで申し訳ありませんでした」と一礼したあと背を向ける。  彼を一人にしてはいけないような気持ちになって、私はまたしても声を掛けてしまった。 「眠れなくて散歩にでたのです。お茶しかありませんが付き合ってくれませんか」  男は驚いた顔と一緒に振り向いた。そうだろう、言った私が一番驚いているのだから。 「こちらに来てから誰かと話すことがなかったもので……不躾でした。ではおやすみなさい」  今度は私が背を向ける。どうしてこんな申し出をしてしまったのかと後悔した。誰とも話さないことで心の平安を保っていたというのに。 「あの……ご一緒しても?」  更なる驚きと共に私はゆっくり振り向いた。
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