<三>

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 毎日を重ねていればそのうち状況が変わり、彼が言うように「そう長くはない」日がくるのでは?私はそう考えはじめていた。新聞やラジオは日本軍の輝かしい戦績を垂れ流し、本土決戦に備え国民が団結すべきだと説いていた。敵国が戦場だったのに日本が戦場になる。それを意味するところは明らかで、もう逃げ場はないということだ。だが国民誰もがそうではない、日本が負けるわけがないと念仏のように繰り返していた。  早く戦争を終わらせ、犠牲となる命を無駄にするべきではない。本土をこれ以上焼け野原にする前に負けを認めれば戦争は終わる。そうすれば彼だって好きな学業に戻れる日々を送れるではないか。  8月4日の夜。いつものように彼は庭にやってきた。半ばに栞を挟んだ本を右手に。左手には制帽。 「こんばんは」 「こんばんは、夜になっても暑いね」  彼はそのまま庭に立ったままだ。こんなことは初めてで私はどうしたのかと問うために腰を浮かす。彼を出迎えるための微笑みは瞬時に砕けた。 「明日……出撃が決まりました」 「え?」 「この本を最後まで読めないのが残念です」  目の前が真っ暗になり、私の足はヘナヘナと力を失った。ペタリと尻もちをつきそのまま床に沈む。今なんといった?出撃? 「お茶を煎れてくれませんか。一緒に食べようと思って」  彼はポケットから竹の葉にくるまれたものを取り出した。 「銀シャリです。仲間と食べるのは味気がない。あなたとなら美味しく食べられる」  彼の手の中の小さな握り飯。最後のご馳走として与えられる白飯。目の前のものがすべてを私に突き付けている。残り時間はわずかしかない。穏やかであたたかい夜はもうやってこないことを。  動けず何も言わない私を見て彼は悲しそうな微笑みを浮かべて言った。 「すいません。 迷惑になることを考える余裕がなく来てしまいました。帰ります」  深々と一礼して彼は背を向けた。 「行くな!!!」  擦れた声は悲鳴のように聞こえただろう。驚いた顔で彼が振り向き私を見る。 「……お茶を煎れるよ」  私は床にへたりこんだまま彼に向かって手を伸ばした。ゆっくり近づいてきた彼がおずおずと私の手をとる。 「さあ、靴を脱いで。おあがりなさい」  ようやく彼はいつもの笑顔になった。
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