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 光司は人混みを避けるということをしないので、誰かにぶつかりそうになるたびに横から引っ張った。身長が高すぎて小さい子供なんかはまるで視界に入らないらしかった。それでも光司は子供を助けてホームから落ちた。二月の冬の日、きっと光司はひとりで、ホームの人混みを避けることなく立っていたのだろう。いつもは光司の視界に入らないはずの小さな子供が、その日はたまたま光司に見つかった。ホームに飛び出す小さい影を光司は追いかけて、それで、どうやって助けたのか。  ホームとレールの差なんてきっと二メートルくらいだ。その落差で光司は死んだ。硬いレールに頭をぶつけて、脳が致命的な損傷を受けて光司の心臓を止めてしまった。光司が死ぬところなんて考えたことはなかった。福岡での千秋楽を終えて、家に帰ればまた笑って迎えてくれるのだと思っていた。  速風光司はもういない。  いまはあの家に、友宏と睦月だけが暮らしている。  睦月は光司が消えた空白にごく自然に収まって、毎日友宏におかえりを言う。だから友宏は喪失に引きずられずに済んだ。光司が消えた空洞の中で、空虚さに押しつぶされることはなかった。寂しさや痛みは傍らにある。しかし、友宏の隣には常に睦月がいて、友宏の思考を存在で物理的に奪ってくれる。真っ暗な喪失にとらわれそうになっても、睦月が隣から、どうしたの、と聞いてくれる。  蝉が鳴いていた。駅の放送が、電車が来るから黄色い線から下がれと言う。 「冷やしたらちょっと楽だね。ありがと」  隣で睦月が言う。電車が来て、ぬるい風が睦月の柔らかな髪を揺らした。     
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