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だって、傘をとりにまた来てくれるでしょ?
浅い眠りからふっと醒め、肌寒さを感じて小さく震える。隣を見ると彼はまだ微睡みの中にいるようで、普段よりも幼く見える寝顔をこちらに向けていた。
彼のさらさらとした黒い前髪を指でもてあそびながら窓に目をやると、先ほどの肌寒さに得心がいった。眠りにつく前には明るかった空はとっぷりと暮れており、湿気は残しつつも雨もやんでいた。
「ーーん」
彼の細い指がぴくり、と動く。どうやら髪をすいている間に無意識に彼の耳をなぞってしまっていたようだ。
「起きて……たの?」
寝起きの掠れた声で尋ねる彼。
こくん、と頷くと少し骨ばった掌で引き寄せられた。
「とてもよかったよ……ありがとう」
えぇ、と小声で返す。胸に広がる彼への愛しさは甘くて、少しの切ない。
このやり取りも、もう何回繰り返しただろう。
彼ーー職場の先輩であり、初めて会ったときから憧れて続け、ただ、その想いを叶えることはないと思っていたその人ーーと体を重ねるようになってからもう半年も経つ。
半年前のあの日も、こんな雨の日だった。
夜11時30分、冬の繁忙期の真っ只中、ようやく業務を終えたわたしは、夜間出口の前で寒空に降り注ぐ雨を見上げてため息をついた。
その日は天気予報を見ていなかった。当然、傘など持っていない。
幸い、職場からわたしのアパートまでは走れば5分とかからない距離なので、コンビニで傘を買うまでもない。こんな真冬にびしょ濡れになるのは風邪でもひきそうで嫌だけどしょうがない、と覚悟を決めて、屋根の下から踏み出そうとしたそのときーー
「あれ、もしかして傘ないの? よかったら入っていく?」
頭上から降り注ぐ柔らかな声に心臓が跳ねる。入社して以来2年、密かに好意を寄せていた彼の声だ。間違えるわけがない。体が震えたのは寒さのせいだけじゃなかった。
素直に頷いて彼の優しさに甘えたい。だけど……。
とある事実がひっかかって、わたしは首を横にふり、せめて明るく聞こえるように断った。
「そんな、申し訳ないのでいいですよ! だってーーもう終電近いですよね? 急がないとダメですよ!」
無理矢理笑みを張り付ける。だけど、彼は眉を寄せて困ったように引き下がる。
「大丈夫だよ、女の子が濡れて帰るなんてよくないよ?」
「あ、えーー?」
半ば強引に肩を引かれて、彼と横並びになるような格好で黒い傘に入る。鼻腔に春の日溜まりのようなあったかい彼の匂いが流れ込む。思わず抵抗を忘れ、その香りに浸ってしまう。
「おうち、どっち?」
「ーーっそこの突き当たりを左、です」
こうなったらなるべく早く帰ろう。そして今日のことは密かな思い出としよう。そう強く念じて、自宅への道を急いだ。
「おうち近いのいいよねー」
普段の様子と変わらず悪意のない笑顔で話す彼には、今のわたしの心境なんてまったくわかってないんだろうな……。
そうですね、と曖昧に返して複雑な気持ちを押し込める。
「あ、ここ、です」
「へぇ、綺麗なアパートに住んでるんだね」
「あの、本当にありがとうございました。駅から反対方向なのに。それじゃあまた明日、」
「ねぇ……」
早口でお礼を言って立ち去ろうとしたわたしを、彼が真剣な目で遮った。
「身体冷えちゃったから、おうち上がってもいいかな?」
穏やかな声で発せられたその意味を理解するのに数秒要した。
部屋汚いから無理ですよ、そもそも終電大丈夫なんですか?
断る理由が喉元まで上がってきては、消えていく。
今考えると、あの言葉をわたしも待っていたのだと思う。
さすがに疲れていたのだろうか。お茶を淹れている間にこたつで待ってもらっていたら、彼はうつらうつらと船をこいでいた。
もうこの時間だと彼が帰る電車はなくなっているはずで、どうせタクシーになるなら少し寝させてあげようかと思案し、わたしもベッドに横になる。途端に日中の疲れから眠気が一気に襲ってきた。
このまま寝てはいけない、この2年、想いを圧し殺してきた努力が無駄になってしまう。
ーーでも、少しだけ。彼が起きるまで。
猛烈な睡魔を言い訳にして、わたしは意識を手放した。
どれだけの時間が経ったのか。薄目を開けるとコンタクトレンズを外さずに眠ってしまったせいで、視界が白くぼやけている。まばたきを繰り返して、
「ーー起きた?」
「!!」
目の前に彼の顔があった。
どうやらわたしの気付かぬ間に彼もベッドに入ってきたようで、とろんとした黒い瞳に見つめられみるみる意識が覚醒する。
お互いの息がかかるほど近くに彼がいる。遠くから見つめるしかなかった、愛しい彼が。
途端にどくどくと鼓動が早鐘のように鳴り響き、呼吸が浅くなる。
身じろぎひとつできず固まっていると、彼の左手がゆっくりとわたしに近づいてくる。 男性とは思えないほど白く繊細な彼の指が頬をなぞる。見た目に反して熱い彼の指。触れた箇所から全身に熱が広がる。まるで彼の熱にわたしもあてられるように。
ダメだ。ダメだ。これ以上近づいてはいけない。頭の隅でけたたましく警鐘が鳴っているのに、
「ーーいいの? もう、もどれないよ?」
恋い焦がれた彼の指を、言葉を、拒絶なんてできなかった。
日溜まりに似たその香りに包まれるその時、彼の左手の薬指には、あるはずの指輪が外されているのを、わたしは見逃さなかった。
彼の携帯電話がチカチカと点滅する。彼の奥さんからのメッセージだということをわたしは知っている。
そしてそれが、この背徳の時間の終わりを告げる合図だということも。
携帯をちらりと見て、彼はのろのろとベッドから立ち上がった。
「ーーそろそろ行くね」
ありがとう、とわたしを優しく抱きしめる。
彼が去っていくこの瞬間がたまらなくさびしい。でもそれを口にするのは憚られて、わたしはいつも強く抱き締め返すしかできないでいる。せめて1秒でも長くこの時間が続けばいいのに、なんてまるで純粋に恋をしていた頃のように。
またね、といつとも知れない約束を残して去っていく彼。ふと、彼が来たときに携えていた傘を忘れていることを思い出して、引き留めようと口を開きかけたが途中で口をつぐみ、また、と笑みを返した。
扉がしまってから戸口にしまってあった黒い傘を取り出した。
彼はこれを置いていったことにいつ気付くのだろうか。きっとその時はまたーー
無骨な彼の傘をそっと抱き締めた。わたしと彼のきっかけであり、か細く不安定なこの関係をつなぎ止めてくれている、その傘を。
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