七木田

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 その時点で、どこまで自分がその可能性について考えていたかは、もう思い出せない。実際何も起こらなかったのだから、その可能性はゼロだったのだ。彼は、そう自分に言いきかせた。  その後も、七木田は友人に変な気を起こすことはなかった。正気になって考えてみると、坂本は誰にでも優しかったし、思わせぶりな態度だったわけでもない。友人としての線を全く越えていなかった。もう少しで、今までふたりの間で大事に築き上げてきたものをぶち壊してしまうところだった。  去年の夏ごろから、坂本に変化があった。その兆しを七木田は見逃さなかった。友人の表情が豊かになった。そしてなんとなく目を惹くようになった。魅力的、とも言えるかもしれない。性別にかかわりなく惹きつける力だ。同僚たちが、坂本の机の前で彼と話し込む時間が増えた。顔色も、今まで悪かったわけではないが、良くなった。  打ち合わせの帰りに、会社の入っているビルの前の通りで、その原因に出くわした。  向こうから友人が歩いてくる。友人より先に並んで歩く連れのほうが七木田に気がついて、あっ、という表情になった。 ――友人が恋をしている。  何か胸がチクリとした。  そのあと三人で食事をして確信した。すでに、デキ上がってしまっていると。  七木田は、酔っぱらって変なことを考えたあの日、本当に何も起こらなくて良かったと、心底思った。友人が自分に気があるかもしれない、などと少しでも思った自分が恥ずかしくなった。友人が好きなひとの前でだけ見せる表情を垣間見てしまったからだ。
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