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急な土砂降りでずぶ濡れになってしまったリクルートスーツの裾を絞りながら、さてこれからどうしたものだろうかと考えた。そういえば、お兄ちゃんの家が確かこの辺だって言ってたような気がする。どこかに行く気分でもないし、何よりこの格好をどうにかしたい。そうと決まればお兄ちゃんに連絡だ。
……不用心な場所に隠してあった合鍵で玄関のドアを開ける。スムーズに行われたその一連の動作は、部屋の中に居たそれにも驚く暇を与えないほどの速さだったらしい。
「きゃっ」
猫がいた。白に灰色のぶち。長い尻尾。
そんな猫が「きゃっ」と言った。猫だけに。
聞き間違いだよね。犬も猫もたまにそんな声を出すし。
しまった、みたいな顔してるけど突然の来客に驚いてるだけ。
「やだもー、いきなり入ってこないでよぅ」
そう思い込もうとしている自分が間抜けに感じられるくらいに流暢な日本語をそれは言い放った。
「ちょっとちょっと、あなた誰よぉ」
頭に疑問符を大量に浮かべたまま答える。
「私はお兄ちゃんの妹で―― 今日はたまたま、就活でこっちに来てて」
「あらそうなの、妹さん。そう言えばたまに電話してたわね。とにかく入んなさいよ」
――シャワーを浴びて着替えをして、お茶まで自分で用意した。
もちろん全部猫の指示があってだけれど。妙に面倒見が良くて困る。
ようやく一息つくと、猫が改まって言った。
「ふー、あなた……何か悩んでるわね」
「え」
「分かるのよ、あたしくらいになると。仕事のこととか、人生のことがあやふやになってんでしょ」
「人間はね、悩みすぎなの。世の中生きてりゃいろんなことがあるのよ」
「猫がしゃべるのも?」
「その通り。そういうもんなんだから、受け入れなさい」
「はぁ」
未だに腑に落ちないところはあるが、なんだか妙に貫禄のある猫の言葉は雨で湿気っていた心になんとなく気持ちのいい風を吹かせてくれた。
「また来なさい。あたしでよければ聞いてあげるわ。もちろんご主人様には内緒よ。あんたは特別」
猫の不思議な誘いに、私は二つ返事でお願いをした。雨の日が結んだ縁は、これから長いものになりそうな気がした。
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