0人が本棚に入れています
本棚に追加
9月10日③
生前の夫はどんなことにも理由や規則性を求めていたけれど、彼はそれらの理屈を生かすことができなかった、というよりも生かそうとしていないようだった。
だから私は、彼はただ理想も理念も絶望さえも全部空想の上に棚上げしてしまって、目を逸らし、現実逃避している、そう理解して、その一点に関してはやや軽蔑さえしていた。
けれど夫の日記を全て読み通した今、それまでと少し異なる見え方で夫のことを考えられるになった。
夫は本当はわかってほしかったのだろう。自分の理屈、じゃない。彼自身のことを、だ。彼が世間の言葉で自分のことを語れない、と語っていたのは、きっと本心だった。
二十代で夫を失うという、やや一般的でない経験をした今、夫の気持ちが、少しだけわかるようになった気でいる。
友達に死んだ夫の話をしていると、自分の伝えたいことが正しく伝わっていなくて、もどかしさを感じるとき、あぁ、あの人がいつも感じていたのはこういうものだったのか、と思うようになった。
夫を失った孤独感、それが人と共感できないことでまた新しい孤独感が生まれる。きっとこれは無限に派生していく孤独なのだろう。
この不毛な寂しさに立ち向かうために、夫は理屈を語った。けれどそれは私には伝わらなかった。だから夫の選択はお世辞にも上手くいったとはいえない。
だけど死後、偶然残ってしまった一冊の日記、彼らしくない、理屈っぽさのない、シンプルな彼の記録は、彼の伝えたかったことの一部を私に伝えた。
私は夫に準じるほど健気な性質ではないから同じ轍を踏もうとは思えない。彼の成功した部分だけを引き継ごう。
そんなガラでない夫譲りの理屈が、ついには私に、ガラにもない日記なんかに手をださせることになった。
飽きやすい私が、日記という終わりの見えない行為をいつまで続けられるものなのか、まるで見当がつかない。
けれどやれる範囲でやっていこう。これこそが夫の死を無駄にせず、彼の死を丁度いい具合で乗り越えるための方法だと信じて。
最初のコメントを投稿しよう!