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9月10日①
ようやく夫の遺品の整理と心の整理に目途がついてきたころにこんな日記がでてくるものだからへこんだ。運命と夫の間の悪さに半ば呆れながら私はその日記を開いた。なんてことのない私たちの日々が、右に傾く癖のある夫の文字でつづられていた。
こういう時は涙が溢れてくるものなのかと思っていたのに、不思議と感動しなかった。むしろ妙に冷静、というよりも私はやけに冷淡で、何気ない会話、料理の話、ご近所とのあれこれ、わざわざこんなことを書き残すなんて真似、そうとう自分に酔っていないとできないよなぁ、と心の中で茶化しながら読み進めていった。
今思うと、あの時の私はどういうつもりだったのだろう。元々の性格の悪さ故か、それとも、あの日記をまともに受け止めていたら心が壊れてしまいそうだからか。心が真正面から向き合うことを避けてしまったのだろうか……なんて考えているうちに、夫の好きそうな疑問にぶつかってしまっていることに気付き、もし夫が生きていたら質問したかな? という想定が一瞬よぎるけれど、すぐにそんなわけないな、と失笑して打ち消す。
迂闊にこんなことをきこうものなら、きっと夫は講釈を長々垂れだすはず。彼は私の理解度を理解することができなかったから、彼が熱心に話しだすと、いつも私は置いてけぼりをくらって退屈するはめになった。
長々話す夫に対する私の相槌が空笑いになったくらいでようやく彼は察して、いつもおどけながらこういった。
「ごめん、ややこしく考えすぎだね」
嫌味ではなかったのだと思う。彼は自家薬籠中に陥りがちであることには自覚的だった。
物事をシンプルに捉えようとする私と違って、夫はなにごとにも理屈っぽかった。
彼は自分の理屈っぽさの理由を理屈で説明したことさえある。
自分は両親から引き離され、祖父母の元で育てられた。つまり大勢の人とは少し違う環境で育った。そのせいで、世間一般で共感される説明や、共有される理解では自分のことを語ることができない、だから自分は自分の理屈を一から組み立てなきゃいけないんだ、そんな感じの話だったと思う。
それを受けての私の感想は、なにいってるんだコイツ、だった。人に理解してもらえないなら、人に理解してもらえる話し方をしたらいいだけなのに。人と合わないなら自分が変わる、それだけで済む話なのに、なんで自分の言葉でわざわざ説明しようとするんだろう。
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