1章 カフェバー

5/7
前へ
/53ページ
次へ
 小さな店内に控えめな曲が緩やかに響いた。  クラシックではない。  耳で聞いたメロディをそのまま感覚的に弾いているから音程も正しくはないだろうし、歌ってもいないので曲名など分からないだろう。  多少ミスをしたところで誰も分からないのは気楽だ。  プロの音楽ではない。  しかし、生の音は心地よく響くものだ。  歓談の邪魔にならないように、静かに優しく。  やがて店内にささやきが戻ったころ、紗川は鍵盤から指を上げた。  そのタイミングを見計らって、店長がピアノ曲を流す。  店内に、ショパンの雨だれが流れ出した。  拍手など求めていない。紗川は無造作に立ち上がり、空いているカウンター席に座った。  その様子から、客も気にかけなくてもいいと察したのだろう。誰も拍手をすることなく、おしゃべりを続けている。  紗川はそんな店内の様子に満足すると、店長が差し出してきたおしぼりを受け取った。温かい。 「連れが到着するまで、軽くつまめるものをお願いします」 「それまで、お酒は控えますか?」 「そうですね。ノンアルコールで何か作ってください」  この店長が作る飲み物は、ラテもカクテルも美味い。  紗川より二つ年下だが、カフェバーを開くために見つけた逸材だ。 「畏まりました。つまみは生ハムとチーズ、ドライフルーツではどうでしょう?」  待ち合わせまでゆっくり食べられるものを選んでくれたのだろう。気遣いに感謝しながら頷く。  店長は言った通りのつまみを提供してから、カクテルを作り出だした。早々に出てきたところを見ると、つまみは演奏中に用意していたらしい。  紗川は、店長がカクテルを作る動作を眺めながら、音楽に耳を傾けた。 「お待たせしました。どうぞ」  コトリと、控えめな音を立て、カクテルが目の前に置かれた。 「夕日をイメージしたオリジナルカクテルです」 「マンハッタンのようですね」 「おつかれのようでしたから」  今日はいくつもの店舗を回り、問題抽出と解決に明け暮れた。働きすぎの刑事ほどではないが、紗川もまた疲労を纏っていた。  マンハッタンは、沈む太陽が都市を赤く照らしている様子をイメージしたカクテルだ。しかし中に沈むアメリカンチェリーの深い赤は、夕日と言うよりも血の色に近く、太陽神の心臓のように見える。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!

87人が本棚に入れています
本棚に追加