1章 カフェバー

6/7
前へ
/53ページ
次へ
 紗川はふと、砂漠の民は太陽が沈む様子をみて、灼熱の時間の終わりを知って安堵するのだという話を思い出した。  缶詰のチェリーを使わせないのは紗川のこだわりだが、その毒々しさに苦笑いが漏れた。  夕日は死を、朝日は誕生を暗示する神話が多い。 (夕日をイメージするマンハッタンと、死者をよみがえらせるという意味を持つカクテルが似ているように思えるのは……なかなか象徴的だな)  紗川は不意に、マンハッタンに見た目が似ているカクテル――コープス・リバイバーを思い出した。  ベースの違いがあるとはいえ、グラスに注いだ時の色合いはよく似ている。  外見上の大きな違いと言えば、夕日をイメージするフルーツを使用するか否かだろう。  コープス・リバイバーには『心臓』がない。  忙しいという字は、心を亡くすと書く。  くたびれた友人に飲ませてやるにはちょうどいいカクテルだ。いくつかのレシピのうち、メジャーなものをさけるのも面白いかもしれない。中には目も覚めるようなとんでもない味のものもあるはずだ。  疲れているときには気軽に笑える話の方がいい――紗川がそう思っている時だった。 「ねえ、それ、マンハッタン?」  すぐ隣にかけていた女が声をかけて来た。  髪の長い女が微笑んでいる。  サラサラと光を反射する真っ黒な髪は腰まであったが、照明を絞った店内でも毛先まで潤って見えた。 「知ってる? マンハッタンはカクテルの女王って呼ばれてるんだよ」  女は笑いながら話し掛けてきた。そばかすの浮いた化粧っ気のなさが親しみやすさを醸し出す。手を抜いているのではなく、もともと水準以上に整っていることを自覚して、あえてそうしているのかもしれない。 「私の元カレ、女王様が好きなんだよね。ねえねえ、あなたも女王様が好きな人?」 「残念ながら、マンハッタンではありません。これは店主のオリジナルですよ。ノンアルコールです。夕日をイメージして作ってくれたようですね」
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!

87人が本棚に入れています
本棚に追加