1章 カフェバー

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「へえ……ノンアル? ああ、ピアノ弾くのに酔っぱらってたら弾けないもんね」  そういう理由ではないのだが、あえて訂正することもない。紗川は答えず、グラスを軽く持ち上げて乾杯の仕草をすると、一口飲んだ。  クランベリーのさわやかな味わいが広がった。これはチーズとあいそうだ。 「せっかくなんだから、お酒飲めばいいのに。酔っぱらって弾いたらすごいかもしれないじゃない?」  女は酔っているようだった。  壁側に座っているところを見ると、連れはいないのだろう。  相手にするかどうか迷っていると「さっきのピアノ、リンキンパークの曲でしょ」と言ってきた。 驚いて目を見張ると、女は悪戯っぽく目を細めた。 「あたし、好きなんだ。アルバムも全部持ってるし、コンサートも行ったよ。One More Lightだよね」  これは観念するほかない。  最初はごまかすつもりでいたが、素直にうなずいた。 「そうです。あの曲なら、わたし程度の素人でもアレンジしやすい。ラップが入ってくる曲は手に余りますが」 「あはは、たしかにね! ラップってどうやってピアノアレンジするんだろ」 「今流れているショパンの雨だれのように、低音で……素早く引いてみるのも手かもしれませんが、指がつりそうです」  トリルのように素早く指を動かしてテーブルをトトトトンと叩くと女は笑った。ひととおり笑ったあと、ふいに寂し気に「そういえばさ……」とつぶやいた。 「ボーカル、死んじゃったんだよね。たしか。なんで自殺なんてしちゃうかな」  バンドのメインボーカルが自殺してしまったため、彼らの音楽はもう生まれることはない。  その横顔は寂しげに見えた。 「才能に恵まれて、みんなに認められて、お金もあって……何が不満だったんだろうね。奥さんも子供もいてさ、足りないものなんかないじゃない」 「さあ……ただ、あの曲の韻を踏んでいるフレーズは好きですね」 「たくさんの光の中の一つが消えても誰も気にしないだろうけど、自分は覚えているよってところ?」 「日本語に訳すと、韻を踏めないのですが」 「そうねー。でもそんなの嘘だよね」 「嘘?」 「だって、あのボーカルはその他大勢の光の一つじゃないもん。ビッグな光でしょ? それこそ、太陽みたいな……」
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