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「ごめん。俺、ラインやってない」
「えっ、そうなんだ。アプリ入れるだけだから、すぐできるよ? もし分からないなら、教えてあげようか」
「そういうの嫌いなんだ、ごめん」
一息に言って、鞄に適当に机上のものを詰め込んで、席を立つ。
様子を窺っていたらしい幾人かが取り残される形になった女子学生の周囲に集まる。
「なんだよ、あいつ。入学早々、感じ悪いな」
「本当。駄目だよ、波音。気にしたら。協調性ないよね、あんな調子で教師になるつもりなのかな」
こんな男がいたら、自分でも間違いなく感じが悪いと判断する。ついで、できることなら関わり合いになりたくないとも。だから、悠生は取り立てて気にせずに講義室を突っ切った。今日の講義はこれが最後だった。早く家に帰ろうと扉に手を掛けた瞬間。背中に届いたのは、ギスギスとし始めていた空気を吹き飛ばしてしまうような声だった。
「大丈夫、大丈夫。もし、重要な連絡事項があったら、俺が伝えるから」
「えー、……でもぉ」
「実は下宿先が隣なんだよね、俺」
だから任せて。あるいは、良いでしょ、と言わんばかりの明るい調子に、悠生は知らず詰めていた息をそっと吐き出した。場違いな声の主が誰だか、やっと分かった。
止まっていた指先に力を入れて扉を引く。廊下に出る直前、ちらりと振り返った講義室の中心で、笑っている華やかな顏。それは、つい二週間ほど前。隣に引っ越してきたのだと今時珍しく粗品を持って挨拶に来た男のものだった。
笹倉葵。唯一、この学科の中で覚えている男の名前を胸中で呟く。根暗な自分の対極にいる、太陽のような男の名前を。
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