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屋敷の主人、その愛寵を受ける黒猫の目が、
一点に止まり、光る。
元より移りげな彼ら、猫の中でも、飼い始めた頃から
甘やかされてきた黒猫は、特別移りげで、
何かを注視することなどありはしなかった。
ーーこの時までは。
屋敷のエントランス、その中央部、施工から完成に至るまでの間、主人が職人らに散々唾を飛ばしてきた拘りの一品、アール・ヌーヴォー調の螺旋階段の頂きよりソレは降ってきた。
先にタイル張りの床を染めたのは胴で、次は頭部。受け身のとりようがなく、落下の衝撃でひしゃげた顔に、黒猫は面影を見た。
ーー主人だ。
個体差はあるものの、一般的に猫の寿命は人のそれよりも短い。黒猫も例に漏れず、人の死を目の当たりにしたことなどなかった。
しかし、そんな黒猫にも明らかに絶命しているとわかるほど、主人の死に様は凄惨なものであった。
強い鉄の臭いに、酸化した油の臭いが混ざっているのは主人が高齢だったためか。
黒猫は鼻先を掻きむしりたい衝動と格闘しながら、主人であったものに近寄っていった。
だが、それは叶わなかった。
脇の下に手を入れ、黒猫を抱き上げたのは、全く知らない男であった。直後、黒猫は理解する。この男が主人を、と。男は己の体臭に絡む血の臭いを気にするそぶりも見せず、黒猫を屋敷外に持ち出した。
雲一つない月夜、男は黒猫の顔を覗き込み、溢す。
ーーまだこんな時間か、と。
黒猫が男から解放されてしばらくが経ち、日が昇ってきた頃に屋敷の者が異変に気づいた。主人を襲った人物が何者か、また、いつ犯行に及んだのか、一向に見えてこない。
調査の邪魔だからと爪弾きにされた侍女の一人が、外で呆けている黒猫を見つけ、あることに気づく。
ーーあら、卯の刻(午前5~7時)なのに、瞳が丸いまま。どうしたのかしら?
その後、黒猫の瞳は開ききったままだったが、猫の目時計の狂いの真意に誰も気づくことはなかった。
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