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一朗は気長に待ってくれたが、顕子に向けられた枸橘の視線は呆れといら立ちが混じった辛辣なもの。お客様の前で明らかに失敗すること、そして必要以上に待たせること。それが接客としてあってはならない事態だということは、言われずとも顕子にはよく分かっている。その焦りが冷静な状況分析を邪魔してくる。
(出る前に鍵を渡されて、それからどうしたっけ……なくさないようにと思って確かポケットに……あっ)
前後の行動を何度も思い出して、顕子はスカートのポケットに入れたことにようやく思い至った。就活で着ていたスーツのスカートにはなかったため、その慣れですっかり頭の外に追いやっていた。落ち着いて、改めてポケットの中に手を入れる。指先に、冷たい金属の感触が当たった。
(! よかったあ……あとちょっとで泣きそうだった)
「……ありました」
顕子は恐る恐る枸橘に渡した。枸橘はため息だけして、顕子がトランクケースを開けるまでの間を持たせる。
「まあ、ゆっくり育てていきますよ。摂津様の方も新しく見習いを入れたとか」
「跡継ぎの確保はどこも急務だからね。御先狐を置けるだけの神社も減っているし、若い者はみんな大都会に行ってしまう。興味を持ってもらえるだけでもありがたいことだよ」
摂津家は江戸の頃より代々、奥多摩近辺に点在する稲荷神社に仕えてきたという。化け狐として野山と人里、神域を行き来しながらその調和に勤めてきた。
廃社や荒れ寺が増えてきた近年では、野狐に術を教えて新たに稲荷神の使いとなれるよう指導している。
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