変身の末

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 だが現実的な解答というものは現実的である状況においてのみ適用するべきであって、今の私にそのような言葉は通用しないだろう。  では私は小説ないし物語の中の住人であるのだろうか? いや、それは私がやはり嫌である。  趣味は読書ではあったが、それは私が消費者である証であり、決して消化される側ではなかった。誰が好きを好んで食われる側に回りたいと思えるのか。バカバカしい。本当にだ。  消費されたら行きつく先はごみ箱か便所である。吸収されてはこちらに意思などない。  現在の状況をよく考えてみようか。  私の年齢は二十であった。おそらくは日本国籍の男性であり、至って真面目な男であった、はずである。  とういうのも真面目などというのはあくまで客観性に基づく解釈であって、決して本来個人が自ら名乗ってはいけないものであるからだ。それを人はナルシストと呼んだりするわけだが、まあよかろう。私は真面目であった。  しかしこれも非常に曖昧な情報である。  今にして気が付いたのだが、どうやら私の記憶には些か欠損が見られるらしく、どうにも対人や私の未来に関するものがすっぽりと失せているようだった。  これはおそらくエピソード記憶と呼ばれるものであるが、であったなら私が読んだ本の題名を思い浮かべることができてしまうのはどういうことであるのか。知識は何故だか持っているのだ。    おおよそこの児童の容姿からは想像できない博学さを私は持ち合わせていた。    つまり、未来において習得した勤勉なる成果は零れ落ちることなくこの身に宿っている。  だが私は記憶についてあまり詳しくはないようで、この知識というものがどこに分類されるものであるのかもわからない。    未来における記憶の中に、未来で習得した学識は含まれないのであろうか。勉強したという未来における行動的記憶はなくとも、それに伴って付随していたはずの知識は置いてけぼりをくらったということなのかもしれない。
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