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往きのバスで飲みすぎちゃって、などと笑って話してくださる気の良いお客様で待機の時間は楽しかったですね。しかし、一人になって再び樹林に入ればまた温度の無い空気がうっそりと沈むように籠っております。
自然足も早まるもので、私は携帯電話を取り出して前を行くS谷に連絡を入れました。
「・・・はい。はい。問題なく。・・・ええ、大丈夫です」
電波はこの時点でもうかなり悪かったと思います。S谷も疲れている様子でした。何しろ私の分まで後方を見ながら案内を続けているのですから。
「はい。・・・え、ここって一本道ですよね」
そうなんです。実はこの日初めて私はこのコースに来たのです。手元には手書きの地図一枚だけ。
「細い分かれ道。・・・なるほど。紺のリボンですね」
目印としてツアーで手首に巻くものです。分岐点毎に枝に括り付けてくれたとの事でした。
微小な上り下りを繰り返す湿った土の上を出来る限りの速度で歩みます。
細い一本道が視界の先でぐねぐねと折り曲がり、見通しは利きません。背後も左右も、周り中どちらを向いても物言わぬ岩と森の風景が広がっていました。
歩けど歩けど動くものは私唯一人。
段々と森の外では日も陰ってきたのでしょうか。足元の暗がりが深さを増してきた様に思えます。
時折、多分背中の方から何かの鳴き声や枝葉のざわめきが、まるで私の足取りを追うかの様に聞こえてきます。振り返り振り返り、しかし決して歩調は緩めずに進みました。
この季節にも汗が頬を伝い始めた頃、S谷の言っていたリボンが見えました。左右二股の分岐点の上、確かに紺のリボンが括り付けられておりました。
しかしリボンは二本、両の道へ張り出す枝にぶらりと垂れ下がっていたのです。
私はすぐに電話を取り出しました。
「・・・ええ、はい。・・・え、最初は右側でいいんですね」
じゃあ、左側のリボンは何なのだろう。同じ様なツアーの目印かしら。私は右側のリボンをとってポケットに入れました。
「ええ、急ぎます」
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