森の道標

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 森の中に本当の夜が下り始めていました。三十分も離されればそうそう追いつくものではありません。息せき切らして樹々の合間、細い道の続く先を急ぎます。  背後では今通り抜けてきた森が暗がりに物言わず溶けています。前方に目を凝らす内、再び暗がりの奥にぼんやりと垂れるあのリボンが見えてきました。  近付くにつれ、やはりそれが二本である事が分かります。 「・・・あの、S谷さん?」 「・・・。・・・」 雑音が徐々に酷くなって、声は途切れ途切れにしか聞こえません。私は懸命に電話を耳に押し当てました。 「・・・え?ここは左?」 迷わずリボンを取ってやはりポケットにしまいました。  スピーカーからは、ピーとかガ-とかいう割れた音が流れ続けています。  追いつけ。早く追いつけ。  靴底を滑らすのも構わずに駆けましたが、どこ迄行けども動物はおろか人っ子一人擦れ違いません。  これは奇妙な事です。何故なら、ツアーでなくとも沢山の観光の方々がここを歩いている筈なのですから。それなのに、いつ迄どこ迄歩いても私一人きり。  そもそもが手書きの地図には確かに一本道が描かれていて、分かれ道などありはしないのです。  と、不意に手の中の携帯電話が鳴り出しました。表示はやはりS谷。もしもし、と耳に強くスピーカーを押し当てました。じいじいという雑音に混じって微かに声が聞こえます。 「・・はい。・・・え!?ここは右・・・、ですか?」 目の前には確かにあのリボンが二本、目線の高さに揺れています。  私はもう毟り取るように右のリボンを解いてポケットにしまいました。  振り返ってはいけない。  夜に沈んでいく森を、私は只管に念じながら駆けました。  決して振り返ってはいけない。  そして、電話はやっぱり鳴るのです。 「・・・はい、右」 「ここは・・・左ですね。ええ、はい。・・・はい」  ぼそぼそとスピーカーの奥から小さく響く声が、未だどうにか聞き取れます。  私は夢中でリボンを毟り取りながら岩の上を跳ね、泥濘を蹴って駆けました。駆けて、駆けて、そして道の両側から被さる枝を薙ぎ払って、とうとう開けた道へとこの森を駆け抜けました。  飛び出したのは整備された県道の上。勢い、危うく車に撥ねられそうになりましたが、幸い難を逃れて向かいの牧場へと。 ここがゴール地点です。電話は十分くらい前から繋ぎっ放しになっています。
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