第一章 追われる少女とイカれた男

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 簡素な革の鞄に必要な物を詰め、肩から下げると、外套を身に纏(まと)う。  いそいそと外に行く支度をしていると、ダリオが不意に声をかけて来た。 「お前はいい奥さんになるよ、クレイグの奴には勿体ないな」  リーリエが振り返れば、彼は未だに机と向き合っている。がしがしと頭を掻き、本を覗き込みながら続けた。 「お前の相手はもっときちんと決めたかったんだが……」 「またその話? 仕方ないでしょ。彼は商会の息子さんだもの。別に私、あの人のこと嫌いじゃないわ」 「だがまだ数回しか会っていないだろう。まあ不足はないが、私としてはもっとこう……」 「心配性ね。そんなに悪い人じゃないわよ」  リーリエはちょっとだけ笑った。  ダリオは最近、しょっちゅうこの話題を口にするのだ。  そしてその原因を、リーリエはなんとなく分かっている。 「お父さんは、私をお嫁に出したくないだけでしょ」  そう言うと、本を捲(めく)っていた父の手が止まった。 「そうかもしれん」  静かに落ちた声に、リーリエはわずかに目を細める。 「大丈夫よ、まだ先のことだわ。それまでは私、ずっとお父さんの傍にいるから」 「……そうか」  ダリオは降り返り、温かな笑みを浮かべた。 「――今日の夕飯はお前の好きな物にしようか。道草は構わないが、あまり遅くなるなよ」  その言葉に、リーリエも表情を緩め、微笑み返した。 「ありがとう。いってきます」  ウィスマルクは平和な町だ。穏やかな風が吹き、温かい人の住まう場所。  リーリエはこの町が好きだった。小さいけれど居心地が良くて、父との二人暮らしは楽しかった。  だから、いつか結婚してこの町を出ることに、寂しさを覚えずにはいられなかった。  婚約者であるクレイグは、金持ちの商会の息子で、二つ年上の青年だ。  少し離れたシーメルの町に住んでおり、彼はたまに汽車に乗ってリーリエの元を訪れる。  二人はいわゆる政略結婚の間柄だが、関係は悪くなかった。  精悍な顔つきの青年は、最初はとっつきにくい印象を受けたものの、数回会って話しているうちに、真面目で気配りのできる男だと分かったのだ。  リーリエは彼が嫌いではなかったし、彼もこちらのことを気に入ってくれているようだった。  婚約者としては申し分ない相手だ。  それでも、やはり父のことを思うと、何かが引っかかったような気分になるのだった。
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