第1章

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1   このままどっか逃げちゃおうか、と草野は赤い顔で言った。五年ぶりの再会で飲みまくり、カラオケで歌いまくった午前3時。 「どっかって、どこ」 「どこだろうねぇ」  紺色のマフラーに顔を埋め、くすくす笑う。 「ま、どこでも」 「なんだそりゃ」 「場所はどこでもよくって、逃げる、が大事だから」  正月休みの最終日。昼の間に止んだ雪がまた、ちらつき出した。酔っ払いは白い息を吐きながら、踊るようにくるくる回っている。広げた左手、薬指。会わない間に草野を『誰かのもの』にした、銀の輪っかがそこにある。 「くさの」 「ん~?」 「……逃げたい、の」 回転が止まる。酒で潤んだ大きな瞳が、俺を見る。 「逃げたく、ない?」 「……」  見据えられて、俺は両手を握りしめる。俺の左指にも、草野と同じ種類の、輪っか。 「よしだ」  俺の名前を呼びながら、草野が体を寄せてきた。あの頃と同じように、真下から俺を見上げるようにする。  ゆるくうねったくせ毛。長いまつげ。小さな顔の割に、大きめの口。  全部、あの頃と同じ。  その全部が今は、俺ではない、誰かのもの。 「吉田」 「ん?」 「逃げちゃおうよ」 「……」 「俺と、吉田で」  唇が、ふんわり開いたまま止まって、かすかに震えた。 「……いいかも、な」 「な、」 「うん」 「じゃ、決まり。逃げましょう」  いいざま、草野が俺の左腕を捕まえる。また下から見上げて、今度は本当に嬉しそうに笑った。 「ぶは」 「なんだよ」 「草野、嬉しそうだなぁと」 「吉田もな」 「まあな、うん。嬉しい」  へへ、と照れたような笑い声と同時に、くせ毛が俺の肩先で揺れる。 「よし草野。逃げると決めたらさっさと逃げよう」 「どっち行く?右?左?」 「まぁ待て。俺に考えがある」 「おお。どこどこ?」  赤く上気したほっぺに顔を寄せてコソコソ言うと、草野は俺の目をまじまじと見て、花が咲くように笑った。 「それ超、名案」  俺の提案は、そこから歩いて十五分。  あの頃に草野とふたり、はじめて互いのからだに触った場所だ。  休憩三五〇〇円、宿泊七八〇〇円。  名を「パラダイス」という。 2   一本だった指が二本になって、その二本もするする、滑りよく入るようになったころ。草野は俺の二の腕を痛いほど掴んで、うわ、うわわ、と場違いな声を出した。 「……おまえ、その声は変わってねぇのかよ。アラサーにもなって」
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