1291人が本棚に入れています
本棚に追加
第四話
迎えたくなかった、三日目の朝。
目覚めはとても最悪だ。
静かに泣きながら眠りにつき、嫌な夢を見た。
とても、とても、ひどい夢。
篠原が、翔太の傍から離れていく夢。
篠原の隣には知らない男性がいて、幸せそうな顔をしている。嫌だ、離れていかないで――と、手を伸ばしても届かない。遠ざかっていく、篠原と翔太の距離。
「――……つらいなぁ」
気を抜くと思い出してしまう夢。
たったそれだけで熱いものが込みあがり、涙が今にも零れそうになった。ローテーブルの上にある手鏡で自分の顔を見れば、泣き腫らした顔をしていた。涙の痕もあれば、目元も赤くなっており、目の周りが腫れぼったく感じる。
目の前に映っている自分の姿は、なんて醜いのだろう。
これでは、誰にでも泣いたことがばれてしまう。
もちろん、篠原にも気づかれるはずだ。
(会うの、怖いな)
心中複雑な気持ちを抱えながら、篠原のことを思い浮かべる。
昨日の放課後はうまくいったのだろうか。篠原の想い人なのであれば、運がよければ告白もしているに違いない。
――ちく、ちく。
痛い。胸が、痛い。
篠原に好きな人がいることは最初からわかっていたはずなのに、とても胸が痛い。心のどこかで昨日の告白があるにしろ、なかったにしろ、とにかく篠原の想い人とはいい方向へ進んでいないことを祈るばかりだ。
篠原の幸せを願っているはずなのに、そういうことを考えてしまう自分が嫌になってしまう。
「――翔太、起きてるの?」
部屋のドア越しに聞こえてくる母の声。
泣き疲れたせいで、身体が重く、だるく感じる。
とても、学校には行きたくない気分だ。
「……起きてる。母さん、僕、体調悪いから学校行かない」
「あらそうなの?」
なかなか顔を見せないと思い、心配して部屋まで様子を見にきてくれたのだろう。理由を告げれば、母は「わかったわ。学校には連絡しておくから、少しでも体調よくなったら顔を見せてね」と言ってドアの前から立ち去り、一階へと降りていった。母の足音が消えるのと同時に、小さくため息をつく。
(芥さん、迎えにくるのかな……)
ベッドに横たわり、篠原のことを考える。
すると、家のインターホンが鳴り、母が出たのだろう。しばらくしてから、再び足音が聞こえてきて部屋の前で止まった。
「翔太。いつも迎えに来てくれる子、体調悪いから休むって伝えておいたからね。もし連絡先を知っているなら、一応連絡くらいはしておきなさい」
「うん……わかった」
――来て、くれた。
篠原がいつもどおり、家まで迎えにきてくれたことに、情緒不安定になっていた心は、少しばかり晴れた。
それでも、全ての不安が取り除かれたわけではない。
残り、四日も残っている。
この残り四日間、翔太は一週間の恋人として演じきれるかどうか、不安でしかなかった。顔を合わせたとき、「もう必要なくなったから」と言われてしまえば、翔太は告白するチャンスでさえ失ってしまう。
翔太の心は不安で押し潰されそうになった。
(大好きな、大好きな、僕の大好きな芥さん)
篠原にはもちろん、幸せになってもらいたい。
だから、篠原の恋が実ってしまったのであれば、翔太はただそれを応援するだけ。
――たとえ、翔太がまだ篠原を好きでいたとしても。
いつの間にか、深い眠りについていたようだ。
目が覚めると、カーテンの僅かな隙間から見える窓の外は真っ暗だった。眠る前はまだ朝だったのに、あっという間に夜へと変化を遂げていた。
朝よりも身体のだるさや重さは軽くなり、部屋を出て一階のリビングへ行けば、テーブルには一枚の置き手紙があった。
〝言うの忘れてたけど、今日から二泊だけ町内会の旅行に行ってくるわね。翔太をひとり残していくのは不安だけど、もう高校生だし大丈夫よね。ご飯代、封筒に入れてあるので栄養のあるものをきちんと食べなさい〟
このタイミングで母は町内会旅行ということで、思わぬ展開に翔太はぽかんと口を開けたまま、置き手紙に目を通した。
「えー……母さん、そういうことは早く言ってよ……」
とはいえ、もう遅い。
幼い頃に父を亡くし、母子家庭として育ってきた翔太にとって、母が家を離れて旅行に行くのははじめてのこと。
これまで、翔太を一生懸命に育ててきたので、町内会での旅行とはいえ、たまには羽を伸ばしてもらうのも悪くないと思う。
ただ、タイミングが悪すぎた。
食事代といって封筒の中にお金が入っていても、すっかり日は暮れており、コンビニに行くのも面倒だと考える。ダメ元で、インスタントかなにかないだろうかと、台所を物色しはじめたそのとき――。
家のインターホンが鳴った。
「……誰だろう、こんな時間に」
夜とはいえど、時計を見れば針は八時をさしている。
そんな時間に、誰が家に訪問してくるのだろうか。学校の友達がこんな時間に来るはずもないし、旅行へ行った母が今更忘れ物を取りに来るのもおかしな話だ。
そう思いながら、翔太は玄関先へと向かった。
カメラ付きインターホンではないため、誰が訪問したのか確認が取れない。迷惑な勧誘であれば追い返せばいい。とにかく待たせてはいけないと思い、翔太は玄関の鍵を開けた。
「……ッ」
「……翔太。ごめん、こんな時間に」
一瞬、息を呑んだ。
「体調、大丈夫?」
「あっ、えっと……その……っ」
「それなら、連絡してくれればよかったのに」
篠原は苦笑しながら言った。
そういえば、連絡をしておくのを忘れていた。
ごめんなさい、と謝り、翔太は視線を足元へ移した。今更、篠原の顔を見るのが怖くて直視できない。
しかし、このまま立ち話なのもいけない気がして、翔太は篠原を家の中に招き入れた。最初は躊躇っていた篠原だったが、「せっかく来てくれたんですから、お茶だけでも飲んでもらえると嬉しいです」と言えば、「なら、少しだけお邪魔するね」と言って入ってくれた。
二階にある自分の部屋に篠原を通し、その間にお茶を用意すれば、翔太も同じく部屋へと向かった。ドアを開けてもらい、ローテーブルの上に置けば、篠原から「ありがとう」と言われた。
「あの、昨日のお昼……その、ごめんなさい!」
「え? あ、ああ! 大丈夫。それに、一緒に食べようって先に言ってなかったから困ったよね」
そう言われてしまったら、弁当を作っていたことは黙っていないと余計に気を遣われてしまうだけだ。
「……いえ」
「それと、俺も謝らなくちゃいけないことあるし」
「え?」
どき、と心音が跳ねた。
「放課後、待ったでしょ?」
「……はい」
「もしかして、探したりした?」
「昇降口でしばらく待ってたんですけど、下駄箱に靴がないことを途中で気づいて諦めて帰りました」
「そっか。……待たせてしまってごめん。次、なにかあったら先に連絡するから。だから、翔太もなにかあったら連絡して?」
「はい。わかりました」
もう一度「ごめん」と篠原は言うが、これ以上謝罪の言葉を聞きたくなくて、翔太は「もう謝らないでください」と伝えた。
昨日の出来事で訊きたいことはあった。
しかし、怖くて、それを口に出すのは憚れた。
「ところで、翔太が体調を崩した原因ってなに?」
「……え?」
伸びてきた篠原の手が、翔太の頬を優しく撫でる。
自然と顔が上向き、翔太の視界に篠原が入り込んだ。
「顔色、まだ少しだけ悪いね。それに、目元が赤い」
「かい、さんっ」
「……泣いた?」
あれだけ泣いてしまえば、目元が腫れてしまうことくらいわかっていた。けれども、泣かずにはいられなかったのだ。
だから、気が済むまで泣いた。
「俺と一緒にいることで、誰かにいじめられた? それだったら、俺が注意するよ」
「ち、違います。……違うんです。ただ、泣きたかったから泣いただけなので、その、大丈夫ですよ」
心配かけないように、言葉を選ぶ。
本心では、本当は心配してほしいのに――こういうときに限って素直になれないでいる。
本当のことを言ってしまえば、篠原を困らせてしまう。
選ぶ言葉によっては、翔太が篠原のことを好きだと知られてしまう。
「そっか。……でも、本当になにかあったら、俺に遠慮なく言えよ」
「はい」
「ほら、そんな悲しそうな顔しちゃダメだよ」
頬を優しく撫でられ、翔太を元気づけようと思ってか、笑みを浮かべる篠原。釣られて笑みを返そうとしても、翔太の笑みは困惑を含んだ笑みとなってしまった。
「あ、あの! 話は変わってしまうんですけど……芥さんは、自分の恋が叶うといいなって思いますか?」
「それは、もちろんそうだけど……どうかしたの?」
「前にも言いましたけど……僕は、自分の恋が叶うよりも、好きな人が幸せになってくれることを祈ります」
「……自分の恋よりも?」
真っ直ぐな目で見てくる篠原に、翔太は「そうですね」と答えた。
「それは、つらくない?」
「つらい、ですよ。つらいけど、僕は好きな人が不幸になるなんて見ていられないです」
「……翔太」
似たようなことを、前にも話をした。このような話をしておかないと、とてもじゃないが気持ちが落ち着かない。
「翔太は、好きな人がいるって言ったよね」
「はい」
「訊いたことなかったから訊くけど、どんな人?」
どんな人――と訊かれた翔太は思案する。
「――芥さんと同学年……というのは、話しましたよね」
「うん。それは聞いたよ。一目惚れなんだよね?」
「はい。入学してからずっと……想っています」
「一途なんだね、翔太は」
「そ、そんなことないですよ! ただ、僕が諦めきれないだけなんです」
「翔太……」
「告白する勇気もないのに……。優しい先輩で、笑顔も素敵なんです。本当にちょっとしたことがきっかけで、ときめきを感じて……だから、その人に好きな人がいたとしても、僕はずっと想い続けていると思います。その人以上に、好きな人が現れない限りは……って、すごく少女漫画みたいな感じですよね」
今でも忘れられない、入学式での出来事。
たった案内されただけの出来事。
そのときに出会った篠原を、翔太は忘れられないでいた。篠原からすれば、小さな出来事すぎて、そのときに出会った新入生が翔太だということは忘れているだろう。
そんな小さな出来事だろうと、翔太は篠原に一目惚れしたのだ。
「……翔太の恋が実るといいね」
「どうでしょうね」
困った笑みを浮かべれば、篠原は悲しそうな表情を見せた。
それ以上見ていられなくて、翔太は部屋にある時計を見て時間を確認すると篠原へ告げた。
「気づけば遅い時間になってしまいましたね……明日も学校あるのに。すみません、芥さん」
「いいよ。俺が翔太の顔を見に来たかっただけだから。明日は学校へ行けそう?」
「はい、もう大丈夫です。それと、明日まで母がいないので、弁当は作れそうにもないです。ごめんなさい」
「謝らないで。そういえば、ご両親の姿が見えなかったけど仕事?」
「あ、いえ。今日から二泊で町内会の旅行なんです。そのこと、僕もさっき知って……」
「そうだったんだ。あまり、無理しないように。なにかあったら言ってね」
「はい」
部屋を出て、玄関先へと向かう。
靴を履き、家を出る準備ができた篠原は「明日、迎えに来るから」と言って、翔太の頭を撫でた。
「今日はありがとう。またあしただね、翔太」
「はい。……さよなら、芥さん」
ただ別れの挨拶をしただけなのに、篠原の表情はなんだか切なそうな表情を見せる。そして、翔太の腕を掴み、引き寄せ、抱きしめたのだ。
「か、芥さん?」
「翔太、つらいことがあったら俺に言っていいから。つらくなる前に俺を頼って」
「……はい。ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
つらいことがあっても、それを篠原本人に告げることはできない。
大丈夫。なんとか一週間を乗り切ろう。
明日で四日目。明日からは、いつも通りに篠原と笑って話ができるようになりたい。
「翔太。あと四日でこの期間も終わってしまうね」
「……そうですね」
篠原の腕の中で話を聞いていた。
「俺は、この期間が終わる前に告白しようかと思うんだ」
「……え」
「告白してみるけど、相手がどう受け入れてくれるかわからない。だけど、俺の今の気持ちをぶつけてみたいんだ」
「大丈夫ですよ。芥さんなら」
「どうだろう。ね、翔太。俺、頑張るからさ、翔太も諦めずに頑張ろうよ」
どこまでこの人は優しいのだろうか。
これ以上、好きにならせてどうするつもりだろうか。
それに、期間終了前に告白をするということは、昨日放課後で見かけた中庭での出来事は、告白をしたというわけではなかったのかと、翔太の中で誤解が解けた。
そう思うと、ひと安心した。
想い続けても、成就することがないのであれば悲しいだけだと思い、先ほどは思わず「またあした」ではなく「さよなら」と告げた翔太。
だが、少しずつ解けていった誤解に、翔太はもうひと踏ん張り頑張れそうな気がした。
もともと、勝手に誤解をしていた翔太が悪いのだ。
「告白するときはきちんと言うよ。だから、そのときは見守っててくれないかな」
「……はい」
「ありがとう。……じゃあ、帰るよ」
篠原の温もりが離れることに寂しさを感じたが、今度は「またあした」と言って翔太は篠原を見送った。
――まだチャンスがある。
篠原が告白をしようと決めたとき、翔太も勇気を振り絞って頑張ってみようかと自分を奮い立たせた。
もうこんなチャンス滅多にないかもしれない。
「……うん。僕も、芥さんに告白しよう」
心の中で何度も何度も「大丈夫」と唱えながら、翔太は明日――四日目の朝を迎えた。
最初のコメントを投稿しよう!