喫女

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 今朝も会えた。  喫煙所で彼女は、ひとりだけなにをするでもなくたたずんでいる。  一階ロビーの片隅、ここのとこさらにこじんまりと仕切りなおされた喫煙所がある。  六畳ほどの細長いスペースに、このビルにおさまったオフィスのすべての喫煙者たちが集うのだから、とても一服いれる心持ちになどなろうはずもないのだが、相も変わらずこの場所は、どの繁盛店よりも混雑している。  そこは一面ガラス張りになっており、 「あそこはどうもさらし者になってるような気がして落ち着かないねえ。アムステルダムの飾り窓じゃあるまいし」と苦笑を浮かべ、わざわざ大通りをこえた商店街の喫茶店まで足をのばす同僚もいることはいる。が、その喫煙スペースに集う人々は、決して落ち着くことが第一の目的ではない。  意図はむしろ対極にある。  容赦ない煙の渦のなかへ自らを放り込み、バカ高い紙巻きの葉と文明の象徴であるところの火でもって己の肺胞の隅々を真っ黒にいぶし、近ごろとかく健全一辺倒になりがちな娑婆のこそばゆい偽善にあらがっているのだ。  彼女もまた、そのひとりにちがいない。  青白くも見える透きとおった肌に、落ちくぼんでも見える憂いをふくんだ瞳。  やれピラティスだ、やれホットヨガだとメディアのお囃子に踊らされることなく、彼女は今日も、肉体を追い込んで快感を得るといった類の娯楽のなかでももっとも過酷で、かつ無駄をはぶいたこの〈行〉に身をおいている。  彼女自身は煙草を口にしない。このことこそが彼女の行為を〈行〉たらしめている。  自身は吸いもしないのにわざわざ煙の充満した喫煙スペースで、なにをするでもなくたたずんでいるのだ。  そんな彼女にはまるで目もくれず、喫煙者たちは紫煙をくゆらし、スペースをより苛烈な環境にぬりかえていく。  やせぎすで猫背気味だが、それだけにすらりとのびた手足が余計に目立つ。  今朝もこうして、彼女の姿を横目でそっととらえるためだけにこの喫煙スペースにやってきた。  耐えるべくは煙だけではない。すえた加齢臭と仁丹と、安物のヘアトニックとニンニクと熟柿とがまばらにブレンドされた汚臭にも黙して忍ばねばならない、まさに〈行〉の境地にあえて身をひたすのだ。
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