第三話 指切

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 ● ● ●  立つ鳥跡を濁さず。  別れとはそんな生易しくも綺麗事で終わるはずもない。  一大に駆け落ちしようと言われ、嬉しくて快諾してしまった。不安はあったが、それでも俺は一大と生きていきたいと思ったから。だからイエスと言ったことに後悔はない。  すべてを捨てて逃げる以上、ホストも辞めなくてはいけない。苦しい時に助けてくれた代表には、まだ受けた恩を返し切れてはいない。それに客とも縁を切らなくてはならない。  駆け落ちするなんて言えばきっと止められてしまう。馬鹿な考えは起こすなと糾弾されて終わりだ。だから誰にも言えない。言うつもりはない。煙のように消えるつもりだ。  せめて龍哉にだけは別れをつたえてから消えようと、一大から一日の猶予をもらった。落ち合う場所は決めている、龍哉にさよならを伝えたら急ぎ駆けつけよう。  すでに俺から気持ちがなくなったろう龍哉なら、別れを切り出してもすんなりと身を引いてくれると思っていた。だが予想に反して龍哉は拒み、最後まで納得はしてくれない。  別れたい、嫌だ別れない。俺たちの気持ちは平行線をたどり、ときは過ぎ出勤の時刻になる。龍哉はマンションを出るまえ、俺に「帰ったらまた話し合おう」と保留にして消えた。  でも話し合うことなどない。もう俺はおまえのまえから消えるのだから。  マンションはワンルームながら分譲購入物件だ、せめてもの詫びとして慰謝料代わりに龍哉へ残していく。契約書など必要書類をテーブルに置くと、「ごめん。俺のことは忘れてくれ」とメモを添えた。  ほとぼりが冷めたら代表に手紙を出そう。疎遠になった母親とは絶縁状態、ふたたび逢うこともないだろう。仕事も生きてさえいればどうとでもなる。先立つものは充分に貯めてある、数年は遊んで暮らせるほどに。  俺のために家庭と仕事を捨ててくれる一大を、一生をかけて養っていくつもりであいつの許にいく。禍福は糾える縄の如し。誰に恨まれようとも、一大の分まで俺が不幸を背負ってやる。  最小限の荷物を手に、最後に住み慣れた部屋を目に収めてマンションを出た。  ごめん。ありがとう。俺は幸せだ───
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