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うちは大急ぎで下駄をはいて、外へ出ていきました。銭湯のとなりの長屋に、威さんが住んどるんは周知の事実でした。
長屋まで、たずねていったことは、まだないんやけど、なんとなく、この日は勢いで行ってしもたんどす。
ええと、奥から二番めやったっけ?
路地を入っていくと、ちょうど夕餉時分やさかい、どのうちからも明かりと笑い声がもれとりました。晩ごはんの、ええ匂いも漂っとります。
うん。ここやな。うちは表札をたしかめてから、カラリと玄関の引戸をあけました。玄関は土間どす。
それにしても、明かりがついてへんけど、留守やろか?
こんばんはーーと、声をかけようとしたとき、うちは座敷のなかに、ぼんやりと立つ亡霊を見て、あやうく腰をぬかすとこでした。
悲鳴をあげかけたけど、よう見ると、なんや、威さんやん。暗がりに立っとるから、オバケやと思うたわ。
「威……さん?」
声をかけると、ギョッとしたようすで、威さんがふりかえりました。ほんでな。つるんと手で顔をぬぐいましたんや。
うち、ドキリとしました。
暗うて、ようはわからんかったけど、この人、今、泣いとったんと違う?
「なんだ。みやちゃんか。どうしたんだ? 年ごろの娘が独り身の男のうちなんか、たずねてくるもんじゃないぞ」
快活に笑う顔つきは、いつもの威さん。
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