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ビルだから階段があるのは当然だった。ただ、その階段。習慣なのか節約のつもりなのか、照明がなく、上も下も殆ど真っ暗で、踊り場に設置された消防設備の赤ランプの灯りに照らされて、ぼんやりと見えているだけで、どうも、あまり使われていない様子なのが、何となく寂し気で、かつ、薄気味が悪かった。
だいたい、あんなに暗くて、もし、火災などが起きたら、避難客の誘導はどうする事になっているのだろう? 副都心にあった古い雑居ビルの火災で大勢の来店客が焼死する悲惨な事故が起きたのをニュースで見たのは記憶に新しい。しかし……。
…………まあ、これはオレが心配する事じゃねーな。八階建てといっても近頃のビルと比べたら五階建てぐらいの高さだ。この階から地上まで、10メートルかそこら。オレひとりなら窓の外の電柱に跳び付いたって下へ逃げられる。
秀人は窓のすぐ外に迫って明るい蛍光灯の光を歩道になげている電柱を見遣り、緊急時の避難要領を確認し、ひとり無言で頷いた。
火災が起きて店や来店客がどうなろうと知った事ではない。そんなのはビルの経営者側の責任だ。
怪我とメシは自分持ち。自分が助かる事だけ考える。酷いとは思うが、何の保証もない派遣労働者の、これが普通の心得だった。
「よし。避難路確認」
そう呟くと秀人は頬に意地悪そうな笑みを浮かべた。
貧困とは恐ろしいもので、常に他人への羨望を抱いていると、その黒い感情は嫉妬に変わり、やがては他人に降りかかる不幸や災難が娯楽に変わる。
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